生きるというものは死ぬということと同等の価値を持つはずだ

『自殺』を考える。死にたい気持ちはなぜ否定されるのか? - キリギリスはなぜ死んだ? (hatenablog.com)

 

前々から思っていたことなのだけれども、

 

死ぬということ、自ら死ぬということ。

 

それは一般的な風潮として、いけないことであり、大罪であり、周囲を悲しませる、この世で良くない者の一つであるとされてきた。

 

 

だがこうも思う、

 

生きるということもそれと同じくらい、悲しいことなのではないか、と。

 

まあ、全ての生が、悪いことだとは思わない。

 

例えば、順風満帆に生きられるなら、才能を生かして成功し続けられるならば、あるいは無限に生きられるならば、

 

生というのは、絶対正義なのだろうと思う。

 

だが、生というのは、その行動の責任を自分で取らないといけない。

 

いや、それどころか、他人の責任さえ押し付けられる可能性がある。

 

交通事故で相手からもらって、慰謝料とかももらっったり、仕事で欠損したり、病気で後遺症を持っても、

 

それは自分のせいじゃない。

 

だがその結果を一生もって付き合わなければならない。

 

ただ運が悪かったという一点だけで、それだけで罰ゲーム。

 

それが生きるということが、必ずしも良いものとは思えない理由の一つ。

 

 

 

まあ、それならばまだいいかもしれない。

 

それもまた、この世界に対して個人的な不満点であるが、

 

しかし、自分のせいじゃない、という点で、まだ救いがある。

 

問題は、自分が行ってきたことが自分に帰ってきたことである。自業自得の場合である。

 

怠慢で何もしてこなかったり、選択を誤ったり、イライラして誰かに当たってしまったり、ミスしたり、

 

そういった自分が悪いということで、自分自身に、あるいは他シャに対して損害を与えてしまった場合、

 

背負わねばならない。生きるということの難易度を上げなくてはならない。

 

生きるということにはそういう部分がある。

 

そういう経験をまだしてない人も、これからする可能性がある。

 

(もちろん悪意があってやったことならばその報いを受けることは当然のことであるが、そうでない、悪意のない自業自得もあるのだ)

 

例えば、大学に行けばよかっただとか、勉強すればよかっただとか、あの選択を妥協しなければよかっただとか、あの人と結婚すればよかっただとか。

 

生きるということは、こういったことに対して迷い続けることなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

そういった、生きるという事に対しての、「重さ」。

 

そういったものから逃れられると考えると、自殺というものに対し、一種の開放感を感じるのです。(まあ、実際に死のうとは思わないが)

 

「どうして生まれてきたしまったのか」「生まれなければずっと眠ったままで要られたのに」「自分は何もしたくない、何もしないのが自分の根本的な欲求なのではないか」と。

(だが私はそれとは真逆の生きるとは素晴らしいという感情も同時に持っているのだが)

 

 

 

 

 

その漠然とした、「責任の重さ」がある。生きるというものの責任の重さを昔から感じてきた。

 

虫師という漫画で、「大量の未来という時間を感じられることが恐ろしい」という話がありました。

「これから生きる膨大な時間を思うと気が遠くなる、だから死んだように生きられる虫に寄生されていることこそが幸せである」みたいな話です。

(この作品内の虫とは妖怪みたいなやつ)

 

 

 

 

まあ当然、大量の未来、膨大な時間は、自分が好きに使って良いのだから、それを完全に有効活用し、より価値を高めていくことができさえすれば、以上のような恐怖はないのです。

 

だがそれができれば苦労はしないわけで。

 

自分は幸せに生きられない、という原因は、自分が原因、つまり自業自得なわけで。

 

喩えるなら、エヴァに乗れ、上手く操縦しないと人類滅亡しちゃうぞ♥、それでもってその全責任はお前だ☆」

みたいな。

 

生きるということはそのくらいの無理ゲー、才能ゲーなのに、皆軽く生に対して考えすぎじゃないかと思うんですよね。

 

 

 

まあそういった、反出生主義的な考え。

 

反出生主義のアンチは大量にいますので、ニコニコ大百科とか観ると喧嘩しまくっているわけですが、(まあ当然ですが)

 

このアンチ反出生主義のことをこの記事では出生主義と言いますけど、

 

その出生主義は、生を絶対的に肯定するわけですけど(まあ反出生主義も同じムジナであるが

 

それに対して「果たしてそうなのかな?」と俺が疑問に思う感情には、こういった理由があります。

 

「子供を残すのは生物として絶対の義務」だったり「子供を作らないと日本滅びるじゃん」だったり、「何歳までに子供作らないと妊娠率が~」とか。

 

 

そういう出生主義の人たちからは、「”生きる”ということを舐めている」とも感じるですよ。

 

それはつまり、「死」を肯定しているとも言えるわけです

 

そうやって生まれた命の一つ一つが幸せになって欲しいと表面上は思っている反面、「その中の何割かは幸せとは程遠い人生を歩むんだろうな」

 

そういった事実を受け入れているとも感じます。

 

一方で反出生主義は、死を肯定しているわけじゃなく、むしろ死を否定しているのではないか。

 

生きるということが何よりも尊く価値のあるものだからこそ、生きるということを扱いきれないし、もし扱うとしたら最新の注意を払わないといけないし、(逆に慎重になりすぎると台無しにもなるし)

 

 

つまり何が言いたいのかというと、生きることが絶対正義ではないよね。ってことです。

もちろん正義なことが多いけど、正義であると考えるほうが社会が上手く周り、9割以上の人は前向きになれるんだろうけどさ。

 

でも出生主義の人って、結局個人を幸せにしたいんじゃなくて、ヒトという種族を存続させたいだけのように思えます。

 

まあ種族存続、それも大事なんだろうけどさあ

 

個人を大切にすれば、種族全体としても幸せになれると思うんですよね。

 

逆に、種族全体で幸せになっても、個人が幸せになれるわけじゃない。

 

それは過去の歴史を見ればわかりますよね。

 

種族と個人、どっちも大事だからこそ、我々一般人は、自分、個人を大事にすることを優先スべきなじゃないかと。

 

 

 

 

 

 

 

あと私は恐ろしいのは、自分の頭で考えないことです。自分の経験や価値で決めないことです。

「子供を残すことは義務~」とか言っている人を見ると、「この人本当に自分の価値で決めてるんだろうか」と不安になります。

 

自分の好き嫌いを他人の目を見て判断している気がしてならない。何故ならば自分もそういう経験があるから。

 

他人から好かれようとして自分を殺す、そういう強制力は、すごい昔から感じている。

 

それが自分の対人恐怖症の理由の一つでもあります。