コンテスト形式の光と闇

コンテストって、嫌いです。

 

何故なら俺は、一位を目指すことができないくらいレベルが低い人間だからです。

 

まあ妬みですよ。

 

苦しい思いをするよりも、漫画を見ているのが好きだし。寝るのが好きだし。

 

だがその一方で俺は一位になりたいと思っている。

 

諦めつつも、諦めきれない。

 

だから俺は、先を急いでしまう。一位じゃないとだめだと思う。他人より優れていないと行けないと思っている。

 

優勝争いでワイワイしているやつらが、引退しても、自分はそういう努力を続けて最終的に勝ちたいと思っている。そういう卑怯なやり方をしてもいいから一位になりたいと思っている。

 

もっというなら認められなくてもいい、むしろ認められたくない。ただ相手より自分が優れてさえいればそれでいい。

 

 

そういう心がある。

 

 

そのために俺は、

自分が楽しければ良い。

という考えがある。

 

もっというなら続けるために楽しさが必要で

続けられるならば何でも上達するわけだから、

どうせなら楽しい分野がいい。

 

でも比較がそれを阻んでしまう。

コンテスト形式がそれを邪魔するわけですよ。

 

比較して自分がやっていることは間違いなんじゃないかとか。

それはまあ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

コンテスト形式って、そういう意味で、光と闇がある

コンテストの意義って、自分の実力が世界に通用するのかみたいな、そういう試金石的なものだと思うんだが、

 

無理して他人に合わせようとして、努力しても楽しくなくなったりとか。

他人に合わせられないからやめたり諦めたりする。

 

でもその一方で、そのやめるということが必ずしも間違った選択とも言えないよな。

他人の合わせるために楽しさを捨てることも、必ずしも間違ってるとも言えない。

 

 

一つに固執するよりも他の分野に挑戦するきっかけにもなるんじゃないかなと。

 

 

 

 

でも、一つくらいは、もっとこう、楽にできるチームなり会社なり界隈があってもいいよな。

というかまあ、あるんだろうけどな。どっかには。

 

でも会社としてこう、そういう、競争を否定したりするシステムがあってもいいのではないか?とも思う。

いわゆる社会主義全体主義

 

無論、不正や忖度、独裁成分はゼロの、純粋な社会主義全体主義的な。

 

本来の社会主義な意味での「皆が楽できればいいよな」的な

 

いわゆる、半分、セーフティーネット的な。

 

 

もしそれが失敗したとしても、まあそれはそれで、実験として有益だと思うわけだよ。

 

国を作るわけでもなし。その会社なりチームが破綻したとて、影響は小さい

 

(というか、そもそも史実のソ連も、最初から国を作るのではなく、企業とかから始めればよかったのにな)

 

 

なんだろうね。こういう事を考えるきっかけになったのは、

「競争主義って、割りと一定のランク以下の人を無駄にしてないか」

という考えからである。

 

 

例えば、オリンピックとかを例にすると、

優勝一位から、10位くらいに入らなければ、全くの無駄なわけじゃん。

 

11位から100位くらいの人もいるんだろうけど、その人は今までやってきた努力は無駄とされているわけですよ。

 

でも、その11位から100位くらいの人の実力が全くないかといえばそうじゃないよね。

 

むしろその差って、微々たるものなわけじゃん。どんぐりの背比べで一番強いやつが一位なわけじゃん。

 

そういう、コンテストとか、そういう競争して何位を決めようっていうシステムって、一人あたりの最大値を決める戦いなわけじゃん。

 

でもその界隈の合計戦力としてみると、11位以下の人も価値があるわけじゃんか。

 

 

なぜそういう事を言うのかというと、実際一人の戦力の比較よりも、全体としての戦力の合計こそが価値あるものなんじゃないかなって、思ったわけです。

 

 

例えば、戦争とかも、一番強い10人よりも、雑兵をまとめて合計した戦力の方が価値があるわけで。

 

研究とかも、一番成果を出す研究者10人より、それ以下の研究者のほうが価値があると思う。(なぜなら科学は総当たりとか、偶然のひらめき的な価値が高いから)

 

芸術も、同じく、あらゆる表現が許されているわけだから、新しい価値を生み出すために、偶然や総当たりが必要だろう?

 

 

だから、競争とかコンテストというシステムは、実際現実的に、社会を豊かにするために沿ってないなと。(有益な部分も確かにあるが)

 

 

 

そういうことを俺は言いたいよね。

 

 

 

 

 

 

じゃあ、具体的にどういうシステムかというと、

最低賃金を設定するってことですよ。

普通に暮らせるくらいには全員一定の活動をしていればあげますよと。

 

そういうベーシックインカム的な感じであげる。

 

だがそれは予算的な問題もあるから、国がやるなら大丈夫であるが、会社としてやるならば、考えなければならないだろうね。

 

もしくは、最低限の衣食住を保証して、一応生きていくことはできますよって感じ。

 

近年科学の進歩で衣食住のコストは下がっていってるらしいので、それが可能になるかもしれん。

 

それにお金を渡すとそれをパチンコとかに使う輩も出るかもしれないしな。

そういう意味で有効な方法かもしれない。

 

そして最低賃金を設定しただけでは、先のソ連と同じ結果になるかもしれない。

つまり全員サボって役に立たない感じになるかもしれないから、

 

それに加えて評価が高い人には追加のボーナスって感じにして、競争主義的な成分も入れないといけないだろうな。

(まあ、個人個人がやりたいことをやらすならば、この競争はいらないかもしれないが)

 

 

 

 

 

まあでも、なんというか、こういうシステム他にもアリそうな気がするんだがな。

 

この前、宗教二世のエッセイで、自給自足の村から脱出しましたよ的な本をみた。ヴィレバンで。

 

それって、いうなれば社会主義の実現じゃん。(まあそのエッセイでもトップは金の亡者だったらしいがな)

 

それと何が違うのかっていう、そういう疑問も俺の中で生まれた。

 

 

 

でもなんというか、俺が妄想するのは、もっとこう、「お前は停滞していても良いんだ」っていう感じの会社なんだよな。

 

停滞ってなんか嫌な響きというか、よく「停滞は後退しているのと同じだ」みたいなことをよく聞くけど、本当にそうかなと

 

まあ確かに、

レベルが高い人は常にレベルアップして新しい発見新しいスキルを身に着けないと行けないのかもしれないけどさ。

 

でもレベルが低い人にとっては、停滞って大事だと思うんだよな。

いつも通りにやってることはいつもどおりにやるっていうことは、別に悪いことじゃないわけじゃん。

 

意識高い人はそれにプラス色々なことをやらないといけないんだろうが。

それって疲れないか?

もっとこう、楽にならないか?

とも思うわけですよ。

 

 

この世界は自由なんだから、別にそういう、停滞してもいいっていう世界があってもいいと思うんだよな。

 

まあ理想をいうならば、停滞じゃなくて、もっと少しずつ、自分が楽だと思うペースでレベルアップできれば文句はないが。

 

もっと何年何十年かけて何かスキルをマスターできると思うんだよな。どんなに凡人でも。

 

いやむしろ凡人だからこそ、時間をかけて自分の理想を追っていくべきんだにょな。

 

天才は数が限られているわけだし。

 

その機会を与えるスペースを作らなければ人類の進化は始まらないと思うわけだよね。

 

でも現状は、その逆。天才を作るどころか、社畜とかいう、機械に劣る存在を作り出してきてるわけじゃん。

 

それやばくね?

 

近年AIとかも出てきてるし。無駄になりそうなわけだよね。

 

それに今って少数の天才たちが、ファンタジー作品の勇者ばりに少数精鋭で世界を守っている状況なわけじゃん。

 

それって綱渡り的というか、リスクが高いと思うんだよな。

 

アニメでよくある「俺たちも戦うぜ!」的な展開が必要なんだよ。多分な。