人類よりも自分が大事、自分の記事を書く際のスタイル

自分は記事を書く際、よく「人類にとって良いことだよ!」とか「社会悪だよ」とかそういうふうな表現を書きますが、

 

そうきくとみんなは

「この記事を書いている人は他人のことを考えている、自分よりも全体のことを考えている利他的な人なんだなぁ」

そう思うじゃん?

 

実は真逆なんですよねえ

 

究極的に言うと自分は自己中心的で、「他人を犠牲にせざるをえない状況では他人を犠牲にしよう!」と考えているような人間です。

 

まあこういうと悪人みたいに見えますけど、究極ね。究極。

 

よく言われる、「船が沈没して、溺れている人を救命ボートに助けようとしても、ボートが沈んでしまうなら助けなくて良い」、みたいな。

 

そういうめったにありえない状況で、自分か他人かの選択を迫られる場合、他人を犠牲にするしか無いと。そう私は思うのですよ。

 

だって自分のほうが大事だし。

 

 

でもまあ、正直、そんなことしたくねえ。

 

そんなことしたら、すごい目覚めが悪い。

 

俺は悪いことをする度胸がない。

 

やらざるを得ない状況ではそう選択するって決めているだけで、積極的にそんな漫画の悪役みたいに他人を犠牲にすることは絶対しねえわ。

 

 

つまりまあ、自分ファーストではあるけど、そんなに性格悪くないぞっと。そういう人間ですよね。俺は。

 

 

できれば、自分と他人がwinwinになれればいいと思ってるからね。それがベスト。それが最高。

 

まあ俺がwinwinが最高と考えているのは、昔見た自己啓発本のせいなんだけどね。

利他的 自己啓発 - Google 検索

 

(でもこの本をよむ前も、やっぱり「自分か他人かで行ったら自分を優先するよな」ってずっと考えていました。)

 

そう、社会や人類が幸せになれば、自分も幸せになれると思うんだよね。

 

普通、「他人の不幸は蜜の味」とか、「幸せは分け合うことはできない」とか、そういうゼロサム的な観念がこの世界にはあるじゃん?一般的にはそう感じるじゃん?

 

でも、それって限られた界隈のみの話じゃね?

 

例えば、就職の席を奪い合うだとか、あるいは会社同士がシェアを奪い合うとか、そういった争奪戦っていう状況のみに適用される言葉であって、

 

別にwinwinの状況…、他人が幸せになれば自分も幸せになれるという状況なんて、いくらでもあると思うんだよな。

 

例えばまあ、経済は、お金持ちがたくさん増えれば、その分GDP的なものが上がって、活気が良くなるし、

 

多くの人がより多くのものを学んでいい大学に入れば、その分、化学も発展するから、その技術が実用化して自分も利用出来るようになるし、

 

他人に親切にすれば自分の株が上がってその分困った時に助けてもらえたりするとか。

 

結構世の中ってwinwinのことのほうが多いのではないかと。

 

(まあ相当の悪人は別だけどね。悪人は人間じゃないから。精神的害獣動物だから)

 

だから記事的とか、あるいは他人と話すときには、基本そういう視点で書いている。

 

 

でもまあ、それでも前述したように、自分を選ぶか他人を選ぶかみたいな状況では、俺は俺を選びたいんだよね。

 

なんかもう、他人に利を与えすぎて、自分を後回しにする癖ができてしまったら、絶対後悔すると思うんだよな

 

 

なんでかというと、まあ、自分が世界の中心という、そういう答えに行き着いているからなんだよね。

 

例えば、子供を作ることは社会にとって良いことだよね。利他的なことだよね。

 

でも、子供を作ると、なんか自分の人生の主役が、その子供に移ってしまうのではないかみたいな懸念が、ずっと小さい頃から感じていたんだよな。

 

そう、子供を守るために自分が犠牲になるって、意味なくない?

 

だって、自分が死んだら、全て終わりじゃん。

 

子供が生き残ろうが、なんだろうが、自分が死ねばアウト。

 

でも、なんというか、「自分が死んでも遺伝子を残せればセーフ」みたいな考えの人多いよね。

 

それって、結構好きなんだけどね。なんというか、利他的というか、日本人的というか、優しくてさ。

 

でもまあ俺はそう思えないだけなんだよね。

 

俺は子供が活躍するよりも自分が活躍したいんだよ。

 

そういう、俺は自分ファーストというか、自己中心的な人間なんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

だから俺が利他的になるのは、それが自分にとって得だからなんだよね。

 

まさに、情けは人の為ならずってやつだよ。