山上容疑者を称賛することの是非について ~核の抑止力~

 

核は悪いものだというのが、一般的な人の心理だ。

 

武器は人を殺すためのものであり、人殺しは悪である。

 

そしてその中でも核爆弾は過去に使われた経験から、もっとも残酷であり、人類を絶滅に追いやるほどの力を持っている。

 

その核は世界中で無数に作られている。

 

一方日本は核を保有していない。

 

だが、近年、日本でも核爆弾を保有しようという動きがある。

 

 

それは海外の保有国が怪しい動きをしているからだ。

 

日本の近海に対してミサイルを打って幼稚な脅しのようなことをしてきている。

 

それは日本が核を保有せず舐められているから、

 

ならば、核を保有すればもっと海外と対等になれる

 

話せば分かるみたいなことを言う人もいるが、相手は明らかに国としての倫理観が終わっている、いわば北斗の拳のヒャッハーみたいな、弱いやつが悪い的な考えを持つ相手に対しては、武力で対抗するしかない。

 

相手はもう人間と思ってはいけないのだ。クマなどの害獣だと思わなければいけない。必ずしも対話が成立する相手ではないのだ。

 

話し合いが成立しない害獣相手に素手で戦うなど愚の骨頂。

 

 

そういう考えが浸透してきているように思える。

 

 

まあ、学校とかでも持たない作らない持ち込まないだとか、核は悪みたいなイメージがあった自分としては、なるほどという論理であった。

 

 

全員核を一斉に放棄すればいいという、それができれば一番良い。

 

だがそれは机上の論理でしかない。

 

実際はもっと日本は強くなれなければならない。

 

国民が無惨に殺され、奴隷にされるくらいなら、相手を殺す方がマシなのだ。

 

 

 

そして、

 

それは国と国の間の論理であるが、これが国内、いや正確には市民と政府関係者の間の理屈としても機能してしまうということである。

 

そう、山上容疑者の首相暗殺の件である。

 

それがなぜ核の保有の考えにつながるかというと、まあ聞いてほしい。

 

 

日本社会は、むちゃくちゃ大雑把に大きく分けると一般市民と政府関係者の2つに分かれていると思う。というかこの記事ではそう分けておく。

 

そして、一般的に、政府関係者サイドのほうが強い

政府が何か意向を示せば、基本的に市民はそれに逆らえない…は言い過ぎではある

 

暇空さんとcolaboの例や他にも政府を相手取った裁判で政府が負けることもあった。

 

海外に比べれば日本はまだ対等な方である。

 

だが、それでも政府サイドのほうが強い。どうしても規模的やシステム的にそういうふうになってしまう。

 

市民には選挙という必殺技もあるにはある。だが、最近わかっていたことだが、統一教会というカルト宗教と政府関係者が手を組み、不正な票を投じていたのだ

 

選挙という強みをなくした市民、もはや独裁国家一歩手前の状態なのである。

 

まあ近年統一教会はほぼ死にかけているから、今後は分からないが

しかし今後また何か不正を行う可能性もまだ高いのだ

 

彼らは一度手に入れた甘みを手放せるのだろうか?そういう懸念がある。

 

 

 

だからこそ、市民は、政府に対して、何か抵抗するものが必要なのではないか。

 

ここで前述を思い出してほしい

 

日本が核を持たないから、海外に舐められているように。

 

日本国民はめったに暴動やストライキを起こさないから政府に舐められているのである。

 

 

 

だからこそ、今の日本国民も、何か核のような、最終手段的な武器を持つべきなのではないだろうか。

 

それこそが、首相暗殺、山上容疑者の事件なのではないだろうか。

 

言うなれば、あれこそが、核。

 

あれこそが市民の誇りの体現なのである。

 

あれこそが、一般市民と政府関係者が対等に渡り合える鍵なのだ

 

 

 

 

 

もちろんそれをむやみに使うべきではない。治安が終わってしまう。

 

ベストなのは、「使われるかもしれない」という恐怖を政府に与えることだ。

 

それは核においても共通している。

 

そう、実際には使わない。使わないけど、いつでも俺らはお前らに報復する準備がある。それが可能であるということ。

 

相手はそれを恐れて、慎重にならざるをえない。

 

そういった均衡状態を保つこと。

 

そうしなければ過去のフランス革命以前の世界と同じ繰り返しになってしまう

暴力の世界や、権力による独裁の世界に戻ってしまう。

 

 

つまり、俺が何を言いたいというと、

 

国同士の争いによる、核保有武力の有用性が叫ばれる今、一方、

 

国内に於ける武力の有用性もまた、否定出来ないのではないだろうか。

 

 

 

 

そしてそれが、件の山上容疑者の首相暗殺において、実現したのではないだろうか。

 

 

 

日本は核(脅し)を保有せず海外から舐めれれているものの

 

国内においては、暗殺という核(脅し)を保有することができたのである。

 

 

 

そう、今回の事件において、他の心当たりがある政府関係者に対して

「次は自分がやられるかもしれない」という恐れ、脅しを与えた

 

 

それは素晴らしいことである。

 

 

そして…

「山上容疑者を称賛するな!!」という意見は、政府関係者の立場になってみれば、すごい分かる心理なのである。

 

もし称賛すれば、第2第3の山上が現れる確率が高くなる(と思っている)のである。

 

そうすれば、次は自分が殺されるかもしれないのだ。

 

だからこそ、その人達にとっては、山上容疑者は悪でなければならないのである。

 

 

 

 

それで、もし世間が、「山上容疑者は一切の同情の余地もない悪」だと、そういうふうに認識されれば、政府関係者は自分が死ぬ恐れをなくしてしまう。

 

すると、さらに政府は、さらに怠慢になり、カルトを野放しにし、政治をおろそかにし、経済をコントロールしない。海外のならずものを優先する政治が行われ、

 

またその被害者の中から、山上が現れる。

 

 

だから、政府関係者は学習した方がいい。

 

 

これ以上被害を増やさないことが、自分たちにとっても最良の選択であると

 

 

これまでの怠慢、傲慢を改めて、しっかりと市民のために働くこと。

 

 

それこそが、自分や他人にとってもwinwinの選択なのである。

 

 

 

 

 

 

だが、

 

だがである。

 

そういう選択を取る政府関係者は少ないだろう。

 

多分ほぼいない。1~2人くらいはいるかもしれないが。

 

彼らはそういう奴らだ。

 

それで反省するくらいなら最初からやらない。

 

殺される直前に反省するような、最も恐ろしく邪悪で無能な悪なのである。

 

その醜さを、恥ずかしさを、人々はもっと認識するべきだ。

 

だから俺は山上容疑者のことを称賛する。

 

 

俺は真の平和のために、政府の無能さを改めるために、これ以上被害者を生み出さないために、山上さんを感謝しているのだ。

 

彼は日本に真の平和におけるきっかけもたらしてくれた

 

本当に、ありがとうという言葉では表せない。