俺は人が死ぬのが恐ろしい。
自分が死ぬのは、まあ別に怖いけど、なんかもう慣れてるから、もうそんな事考えてもしょうがないから少しでも生き残れる行動をすればいいじゃんで対処できるが。
他人が死ぬのは、なんか、止めてくれ。自分を一番に考えてくれ。
なんかもう誰々が病気になるとかいうニュースがあるたびに、そう思うわけですよ。特にクリエイター界隈。ちゃんとしなさい。ちゃんと適度な運動睡眠食事を取れ。頼むから。
そう思ったのは、子供の頃、ひいばあちゃんだかじいちゃんだかをみたときで、すごい枯木みたいな人で、正直恐ろしいと思った。
見た目が、もあるかもしれないが、人がこうなってしまうことが恐ろしい
生まれたときは元気なのに、たかが時間がたっただけで、こうなってしまうというのは、やはり怖い。
いや、それ以外の理由もある。
自分は正直集団生活に向いていない。
なんというか自分は、極端な性質というかなんというか。
自分が所属するチームのために働くことはできる。全力で協調することはできる。
でもそれに対して、相手はそのリターンを返してくれるとは限らないわけじゃん。
そのために、俺は小学校中学校から、もう俺が所属する学校とかクラスとかどうでもいいじゃんみたいなモードに入ったんだけど、
なんかその頃から、なんというか自分の周囲に迷惑をかけてしまうことが多くなったようなきがするんだよな。
いや、気の所為というか、ただ単にクールぶってたから、その影響だというか。
修学旅行とか、俺が原因で俺のいるチームがなんかげんなりしたことがある。なんか詳しくは忘れたが、なんか忘れ物をしたりしてそういう思い出がある。
なんというか、そこからなんか、他人の人生の責任を、俺は取ることができないなということを、うっすらと少しずつ気がついていったのさ。
まあ、仮に俺が社長とかになったとして、部下に指示を出して会社を成長させるってことはできると思うんだよね。
だってその会社は自分の所有物(のようなもの)だからな。自分の会社を成長させるために色々と考えるということは、個人プレイみたいなもんじゃん?
そうじゃなくて、なんというか、俺がトップではなくて、平社員みたいなボトムの位置で、かつそのチームのために利益をあげようみたいになったときに「いやまあ頑張るふりはするけどさあ」みたいな。
いやちょっと話は脱線したな。
他の例をあげると、なんというか、自分は大学生の時に、好きな人がいた。
まあ若干ストーカーめいているというか、前の席にいる子が「いいな…」って何故か思ったわけですよね。
それで電話番号を聞いて、そして初めて電話を書けたわけですよ。
すると、相手はなんか不機嫌そうだったわけです。
まあ実際はどうだったかわからない。照れ隠しだったのかもしれないが、少なくともその時の俺はそう感じたわけです。
その時点で、俺は「あ、ダメだ」って思ったわけですよね。
なんというか、まあ順番に説明しよう。
まず、相手が不機嫌そう、だからもう良いや捨てます。っていうのは、まあ若干クズみが入ってるけど、理解できるよね。
今まで俺は、その子と、なんかうまく付き合えていたような気がしたんですよ。でもそうじゃなかったのか…じゃあもういいや。めんどくさいし正直、って思った。
それが一つ、
そしてこれが重要なんだけども、その時俺はもうひとりの俺がこういったのです。(実際には言ってないけど比喩ね)
「普通はこういうとき、恋人とかそういうのって、相手のことを許せる関係なんじゃないの?」
「だったらこういうとき、相手の不機嫌をお前は受け止めるべきだろ?」
「さあ、受け止めろ」
その司令に、俺はこう答えた
「いや、無理っす」
そして俺は縁を切ったわけです。
まあその後もちょっと交流あったかもしれないけど、
つまるところ、俺は、俺が命令して他人がそれを聞く、みたいな。
俺が客で相手が店員とか、俺が社長で相手が部下みたいな、そういう関係でしか他人と交流できないなって。
この恋人の例のように、相手が何をいっていようが、「相手の真意を知れよ!」とか「受け止めろよ!」みたいな、そういう相手をコントロールできない関係性って、すごい嫌だなって。
でも、それがコミュニケーション、みたいなところあるよな。普通の。
前者は結局のところ、自分が人間で相手を道具とかコンピューターみたいなところあるじゃん?
まあ人間なりに色々と対応するところもあるけど(ブラックみたいに基準以上に働かせたらいけないよとか)
後者みたいに、相手が思い通りにならないことこそが、なんというか、人間関係なんじゃねーの?みたいな。
それが人に対して誠心誠意向き合うってことじゃないの?
だから俺はそういうコミュニケーションを諦めました。
なんか、そういう相手が思い通りにならないストレスって、人間の歴史において、色々と克服しようとしている部分もあるじゃないですか。
例えば「挨拶」とか、「京都言葉」とか、「ファンクラブ」とか、「祭り」とか、「2ちゃんねる」とか「ネットミーム」とか「茶道」とか「マナー」とか。
そういうミーム全般。それがコミュニケーションを放棄し、円滑なコミュニケーションを得ようとしている知恵何じゃないかと思うんですよね。
そういうのって、全員が同じユニフォームだったり、定型文だったり、作法だったり、
そうやって、相手が自分の思いどおりになっている、何も予定外のことはない。みたいな。そういう個人の自由を縛ることによって、安心感を得ている部分もあるじゃないですか。
なんというか、そういう環境にいる人間って(まあほとんど全員なんだが)、目の前にいる人間を正真正銘向き合おうとすると、やっぱり酔ってしまうと思うんですよね。情報量に。
なんかこう、人間って、何jを考えているのかとか、あるいはその人の歩んだ歴史だとか、そういうのを捉えようとすると、恐ろしいじゃないですか。
だってほとんどの人は、正直ストレス的な人生を歩んできているわけですよ。
仕事を止めたり工夫したりして、自分の望み通りの人生を歩めるように努力している人はいいですけど、ほとんどの人は、「これが俺の人生だ」「そんなのは嫌だ」とかいって、ストレスの中仕事をして、酒や煙草や女を抱いたり、他人をどなったりネットで悪口をいったりしているわけじゃないですか。
まあ、「こいつ…いいな」って言う人も割りといますけどね。
なんというか自分はそういうことを他人を見たときに妄想してしまうわけですよ。
それが嫌なんですよね。
おそらく人は、そういう過度な情報量というか、相手の生命の重さから目を背けるために、前述のような定型的な作法とかミームを作ったんじゃないかなと、思うんですよね。
そう考えると、「本気の武術」っていうのは、すごい相手のことを誠心誠意向き合っている、真のコミュニケーションが実現しているジャンルだなって思うわ。
相手がどう予想外のことをしてきても、それをありのまま受け入れて、かつ自分の技を通す。みたいな。そういう本気の武道というか、そういうの、尊敬するよな。
でもまあ、近年の武術はやはり、ミーム化している部分もあるらしく、「相手がこうきたら空気を読んでこうする」みたなのを決めて動いている部分もあるらしい。刃牙風に言うと、達人は守られている!ってやつだな。
まあでもそれは半分くらい仕方ない気もするけどな。前述の通り、人は相手が怖いからマナーとか作法で縛って安心する側面もあるから。あと怪我したらヤバいしな。別にそんな必死になって身を守る必要は現代においてそんなに無いわけだし。
まあ、なんというか、人って、世界にあるあらゆる存在を、ゲシュタルトとして捉えるじゃないですか。つまり「そういうものです」って言って、それ以上考えないじゃん?
例えば「学校の先生は学問を教えてくれる人、生徒はそれを学ぶ人、親は自分を守ってくれる人、友達は遊んでくれる人」、という認識じゃん?普通は。
でも実際にはそいつには歴史があるわけですよ。今まで生きてきてどう行動してどういう環境でどう感じたのかとか。
なんか、知らない他人と一緒のバスに乗ったときに、そういう感じになって、不安定に成るんですよね。
なんというか、言ってしまえば「可哀想」って思ってしまうんですよ。
でも救うことはできないというか、下手に情を見せると、危ない所あるじゃん?人生って。
救うことができるのは、巨大な組織、政府とか巨大企業とかだけじゃん?
だからまあ、不正のニュースとかあると俺はムカつくんですよね。
人を救うためにある組織が自我を持ってるんじゃねえみたいな。
当然のことだけど、人類を救うことができるのって、個人じゃないよな。だから俺はスーパーマンとか正直馬鹿らしいと思うわけですよね。
なんかよくあるヒーローみたいに、一人の死に対して感情を見せたら、正直英雄やってけないと思うわけですよね。足元すくわれるというか、黙々とお前の仕事をしていればいいんじゃないかなって。
なんか人に対して誠心誠意向き合うことって、やらなくていいことだよな。
んで、なぜ俺はそう思ったのかというと、またユーチューブの2ちゃんまとめ動画なんだが、寿司職人で父親が寿司職人系の、「相手を神様を思え」的な創作っぽいまとめを見たわけですよ。
なんかこういう、カウンターがあって、大将的なやつが一人でなんか対応するみたいな店って、一人で入ると、なんかこっちバカにしてきているような気がしていて、ムカついていたが、
この創作みたいに、向き合いすぎるのもいかがのものなんだろうね。