バズるようにフォーマットされてしまう文化に対する、アンチテーゼ

 

ありっちゃありスパーク・マシュ060「1300年持ち歩かれた石&いる人スペシャル」(2022年9月19日) - YouTube

 

 

自分は、アリっちゃありスパークというネットラジオを毎週楽しみにしている。

 

まあ男二人が、しょうもないことで話すというラジオなんだけども、それが面白い。

この人たちは、オモコロという最近ユーチューブでも頭角を現している人のことで、特に原宿さんが本当に好きなんだよね。

 

原宿さんは、嘘つき泥棒とか仲間内から言われている人なんだけど、いい意味で理屈屋なところがあるというか、ごねるのが上手い人というか、もうこのキャラクターは実際に見てみないと理解できないという、そういう魅力を持った人なんだけど、(もちろんもう片方のむろきおすしも好き)

 

この回ではその原宿が「今ツイッターとかでバズるようにバズるように加工されているエピソードがあるけど、そういうのもうやめない?」みたいなことを言ったわけですよね。(こういうことを言ってくる回が3~5回に一回くらいある)

 

つまり、普通ネットでバズるには、原石となるアイディアなり、記憶なりエピソードを、ツイッターらしくフォーマットして「一同総立ちして拍手」「ってばっちゃが言ってた」「子供がこういうことを言ってた」みたいな感じをして、共感させてこよういいねさせてやろうという感じになっているけど、

 

「もう原石だけでよくない?

無理に面白くする必要とかなくない?

記憶だけで十分面白くない?」

 

というような意味のことを言っているわけですよね。

 

なんかこれを聞いて、なんかすごい安心したというか、自分もうすうす「なんかツイッターのこういうノリキモイな」と、無意識的に嫌気的なものを感じていたんだが、

 

それを言語化して原宿のような人が言ってくれるというのは、いいなと。

 

なんといか、俺は、今まで小説なり絵なりを描いてきて、一番時間かかることは、そういった味付けというか、この絵や物語が一般大衆的に受け入れられるように、線を調整したり色を塗ったり、小物を付け加えたりとかいった、そういうことに時間を取られてきた経験が一番長いと思うんですよね。

 

なんというかそれって自分を出せてないじゃないですか。

 

なんかパット閃いたことを形にする、そこまではいいんだけどそれを無理にバズらせるように味付けする必要とかないのかなって。

 

自分はどちらかといえば、作画よりもネタを作る方が得意なので、そういう特異なところで勝負したいと思うんですよね。

 

このブログも、まあ思いついたものを次々と更新していくほうが、一番いいんじゃないかと。