文章を書くときに気を使ってしまう。

 

前に、オモコロの原宿さんという人が「なんかオチをつけようとか、笑わせようとか、面白いネタとして話すのではなく、ただただ”あったこと”を話すだけで楽しいじゃん」みたいなことを言っていたと記事にしたが、

 

ちょっとそれに対して思うことがあるのだけれども、

 

このブログの記事とかも含めて、色々と創作する際、気を使う部分が出てしまうわけですよね。自分。

 

 

例えば、変換ミス。

 

こうやって文章を書いている時、変な漢字になってしまって、なんかバックスペース押して消してから~とかね。

 

なんか、そういう細かい時間のロスが、自分のやる気を削いでいる気がするわけですよ。

 

まあ、それだけならまだ良い方。

 

 

なんか日本語って、例えば

「〇〇だ。〇〇だ」って、同じ文末を続けて2回書くの、ダメみたいな感じじゃん。

 

なんというかリズム感というか。

 

そうじゃなくて

「〇〇だ。そして〇〇である。」みたいに、ちゃんと変えないとダメだよ?みたいな。コンボシステムみたいな感じなんですよね日本語って。

 

日本語って結構複雑なのがすごいって言われてて表現の幅が広いのが特徴だけ、こういうところはデメリットだよな反面

 

 

 

まあ、それもいいよ。別に。

まあ何年も文章書いてるしもうなれたわそういうのは。

 

 

あとさ、まだあるんだけど、

 

「読者の目線でどう考えてるか」、を考えて、すごい時間がかかったり冗長になったりすることがあるんだよね。

 

なんか読者視点で「え?この文章書いてるやつ…やばくない?」みたいな、そういう誤解というか、

 

例えばさあ、前に自殺について色々と語ったわけですよね。自分は。

 

「自殺って、その人が変わりたいと思った思いの発露なんだから、俺はポジティブに捉えている」というね。

 

なんかそういうと、俺が自殺教唆してるみたいな感じになるじゃん。

 

そうじゃなくて、なんというか、自殺という行動そのものに含まれる、その人の「幸せになりたい」という思いを、ポジティブに捉えているわけですよね自分は。

 

あと、死ねば休めるじゃん?休みたいという感情表現のために「死にてー」とか言うじゃん。あるいは転生したい、変わりたいという表現のためになろうでは死から物語が始まるわけだし。

 

でもそういうと、ティーンエイジャーは「あっ死んでいいんだ」って死ぬ人もいるかもしれないなぁ…って思ってしまうわけですよ。

 

まあこの読者数なら、その心配はほぼ無いと思うし、仮にあったとしてもそんなことパッとできるやつはそれ見なくても絶対いずれやってると思うわ。どんだけ現代人が情報を吸収してると思うんだよ。そんなことができるなら確率的にいずれやってるだろ。

 

まあそういう事を考えているわけだけども、そういう、誤解を恐れずに書くということが、大事なのかなというか。

 

前述のオモコロの原宿さんの意見に戻ると「お前らは原石である記憶を磨きすぎ」(意訳)みたいな

 

なんかそういう原石を磨こう磨こうとしすぎて、なんか大切なものなくしてないか?みたいな。

 

そんなことしないほうが幸せになれたんじゃないの?みたいな。

 

なんというか、アレですよね。

 

人間って一つのことに集中したほうが力がでるわけじゃないですか

いくらマルチタスクだとか言ったってそれが最強なわけですよ。

 

そのために無駄な考えを減らす、無駄を省く、それが効率化というやつじゃないですか。それが極めるということじゃないですか。

 

それがね、俺は苦手なんだよ。

 

前述の通り、色々考えちゃうんだよ。一旦なんかそのリズムが崩れてしまうわけだよね。誤変換とか視聴者の気持ちを考えちゃったりとか。

 

だからそれを克服したいな。

 

文字を書くことにとどまらず、イラストを書く時とか、色々なところでこういうことしてるんだよな。

 

一つに集中したいわけよ。ただ単に。