前の記事で、ハンターハンターの能力のシステムについて考察したんですが、
その時、「無駄な努力ご苦労さま♧」とか、チードューの能力に「無駄だろ」とか「メモリの無駄遣い♡」とか、
なんか、能力設定ミスったみたいな、いい師匠がいれば…みたいなシーン多いなって思ったわけです。
いわゆる、失敗例的な感じの。
それで思ったんですが
「ハンターハンターの能力のシステムって、一度やったら後戻りできないシステムだよな」
っていう。
リアルに考えると、そういうのって途中で変更できるわけじゃないですか。
一度Aという方法である程度鍛えた後、それは間違っていると思ったからBに方向転換する、みたいなこともできるわけですよね。リアルなら。
チードュの例にすると、なんか飛び道具無駄ならば、その能力は止めて、別の能力に変更すればいいわけじゃん?
その分の時間は無駄になるわけだけど、取り返しのつかないというわけではないわけですよね。
(まあはんたの能力システム的に、一度身につけた念能力はメモリから削除できないみたいなやつなのかもしれんけども。)
リアルでも、無駄な努力なんていくらでもしているし、誰しも経験しているわけですよね。
本当に大事なのは、無駄だと気がついた時点で「じゃあ何がいいの?」って考えて方向転換することでしょう。
それにある程度一つのことを極めれば、それが仮にすべて無駄だとしても、自分自身の精神力とかが鍛えられているし、能力も鍛えられているから完全な無駄とも言えないと思いますけどもね
なんかコンコルドの誤りとかに陥ることもあるでしょうがね。
「これまでの時間が無駄になるから、今になって方向転換するわけにはいかん!」ってね。
まあ個人レベルでもそういう心境に起こりうるけど、ちゃんとしっかりすべき政治だったり企業だったりがそういう精神状態に陥ることもあるわけですよね。
この心理、すごいわかる。
ある程度自分は克服した(と思いこんでいる)わけだけども、実際今までの努力が無駄っていうのは、恐ろしいことなんですよね。
自分が間違っていた。ということを認めることは、どんなに天才でも秀才でも難しいことなんですよ
いやむしろそういうった人のほうが難しいのかもしれん
例えば、教育ママとかが締め付けすぎて息子がニートになるとか、ママの視点から見るともう悪夢なわけじゃないですか。
アインシュタインも核爆弾の開発に関わっていたらしいし、その心境はすごい残酷なわけじゃないですか。
そういう、自分が良かれと思ってやったことは実は逆効果みたいな。
そういうタイプの悪夢を富樫は見ているのではないかと。
だからこそ彼の描く漫画にそれが現れているのではないか。
と思うわけですよね。
まあ、それがあっているかあってないかはさておき。
なんというか、確実に何らかの闇を持っているよな冨樫って。
じゃなければあんなすごい絵をかけるわけがないのではないかと。
キモいデザインのモンスターとか、あるいは苛烈なストーリーとか、本当にすごいよなと。
なんといか、読者をすごいワクワクさせる度合いもすごくて、また絶望させる度合いもすごいというか、
山と谷の上下の差がすごい大きいというか、プラスにせよマイナスにせよ絶対値がすごい、というのがすごいところだよな。
そのマイナスの度合いを見ていると、
「これ、普通に何事もなく生きてきた人間が描けるものなんだろうか?」
と疑問に思うわけですよね。
いや、仮にそういう闇を持っていないとして、そういうのを書けることができるとしたら、天才以外の何物でもないんだけども。
俺の経験的に、性格とか人生経験ってでると思うんですよね。漫画とかイラストとか小説とか
とくに長期にわたって連載しているやつならなおさらですよね。
連載初期は、ちゃんと設定を練ってるわけじゃないですか。一般受けするように。ちゃんと皆に好かれるようなワクワクする展開にしますけども、
やっぱ長期連載すると、体力がハードになったりで、そういう媚びが多少なりとも剥がれてくるし、人気も高いはずだからその作者の権威も高くなるわけだから自由度が効くはずですし。
おそらく、「無駄な努力ご苦労さま♡」みたいな、コンコルドの誤り的な、そういう「俺の人生の大半は無駄だった」みたいな。
そういうエピソードがハンターハンターにちらほらあるのは、それが冨樫に取ってコンプレックスだからなのではないかと考察するのですよね。
まあ、この考察が間違っているかもしれない。
話は脱線しますが
漫画家とか物語を作る系の人って、二種類いると思うんですよね。
リアリティとトゥーン
リアリティとは、岸辺露伴的な「リアリティこそが面白さだ!」っていうやつ
トゥーンとは、ディズニー的な幻想的だったり現実離れしていたりするやつ
前者は例えば、人が死ぬタイプの漫画だったり、ちゃんと設定を練るタイプの漫画だったり、基本ルールが現実と地続きになってるタイプのやつ。カイジとかウシジマくん的な、
後者は主人公補正が強くて、こんなのあり得ないだろみたいな。でも面白いからOKですみたいな。トリコとかワンピとか。
まあ、一つの作品にリアリティもトゥーンも両方あるっていうのが正しいわけですよね。
トリコやワンピでもトゥーンに完全に偏っているわけじゃなくて、リアリティ、ちゃんと人が死ぬときは死にますっていう部分もあるし。
ハンターハンターもリアリティ寄りの漫画だけど、ゴンキルが無双したり能力が都合良かったりトゥーン的な部分もあるわけだしな。
でも、なんというか、リアリティ重視の人が多いと思うというか。
宮崎駿の「いや、この女の子はこうやって描くべき!」っていう感じの感覚
「〇〇はこううときは、こうしないとおかしい!」いわゆる解釈一致で描く人の方が多いというか、
作者が好き勝手に書いて良く、だけではなく、
その作品にフィットした「正解」があると思って描く、みたいな創作の仕方もあると思うんですよね。
作者とかファンが作品を育てていく上で設定も固まっていくわけだし、『その作品内で自然な動作をするかどうか』みたいな、そういうベクトルが強まっていくと思うのですよね。
つまりリアリティ重視のちからが強くなっていくわけです。
ハンターハンターもそうですよね。
この時ヒソカはどうして旅団に復讐しようとしたのかだとか、どうしてキルアの父ちゃんはキルアを送り出したのかだとか、そういう合理的に説明がつかないとファンも作者も納得しないみたいな、リアリティのベクトルに振り切っていくみたいな。
まあそれは良いことであるけども。ある程度トゥーン的な部分もないと難易度が上がりすぎたりつまらなくなったりするわけですけどね
十二支んとか、明らかにトゥーンよりのキャラデザしてるけども、ある程度そういうのはあったほうが良いのではないか。
ワンピも結構バトル方面はニカ以前からトゥーン的なご都合展開が多いけども、それ以外にコストを集中してるわけからそれは必要だったんじゃないかみたいな。
まあ長々書いてきたが、つまり何が言いたいのかというと、冨樫はエンターテイナーな部分もあるが、リアリティの感覚の部分も多分にあると思うんですよね。
だからこそ、「無駄な努力ご苦労さま♡」展開
ゴンやキルアという例外中の例外の天才がいる一方で、こういう選択を間違えた人もいる、という例を出すことによって作品にリアリティを与えているのではないか、
リアリティというのは、失敗なわけですからね。
それも小さな失敗だけじゃなくて、ある人は大きな失敗もしますよ的な。そういうのを作品内に置いておくことによって、「ああこの世界はリアリティがある」と思わせることができるわけです。
だからこそ、主人公やメインメンバーが死亡するみたいな展開があると思っている。
漫画ってフィクションの世界だから、作者にとってどうとでもなる世界なわけで、それ前提で読者も見ているわけです。
だから普通は死なない。死なないのが普通だよねってなる。
でも普通は死なないからこそ、メインキャラとかが死んだ時に「リアルだ!」って評価されることが多いわけですよね。
まあハンターハンターの場合、ゴンキルクラレオのメインキャラ以外の一般モブが惨たらしく死ぬと言うかたちでリアリティを取っているわけですけど。
まあゴンもグリードアイランドとかアリ編でで欠損してる(治ったけど)わけだからね。
十分リアリティが高い。
言うてね、それがベストなのかもしれん。
メインキャラを軽々しく殺すのは諸刃の剣だよね。
人気のあるキャラが今後出ませんよってなるわけだから。
だからってドラゴボみたいに軽々しく復活されると、感動が薄れるわけだし。
既に幻影旅団員が何人か死んでるけどもそれもすごいなというか、まあ冨樫並の実力者ならいくらでも殺せると思うけども。クラピカヒソカ団長殺しても別の展開を既に考えてるんだろうけどもね。
っていうかゴンも既にメインストーリーから離脱しているわけだし。
まあ、長々と言ってきたがつまり何が言いたいのかというと、
ハンターハンターを見て、一時期「これを書いている作者は一体どんな人生を歩んできたんだ…!」「普通の人間が書けるものなのか…!?」とか思ったわけだが、
別にそんな壮絶な人生を歩んできたわけじゃなく、リアリティを出すために「すごい頑張ってるだけ」説もあるよねっていう話です。