瞑想が何故良いのかについての考察

 

 

瞑想って、不思議だよね。

 

なんかやたら瞑想ってジョブスとか著名人に評価されてるけどさあ、やることは「何もしない」ってことだからな。

 

何もしないなら眠ることも同じじゃんって思うかもしれない、俺も思っているけど、意識を覚醒させたまま何もしないっていうのが瞑想らしいよ。ざっくりだけど。

 

それでいい感じになるっていうか頭が冴えるっていうのは、ちょっと不思議というか、なんで?理由は?って思ったわけですよね。

 

それで、ちょっと俺が「こうじゃないかな」ってものをふと思いついたわけですよ。

 

仮説的なものを言いたいわけですよね。

 

 

つまり、瞑想っていうのは、基礎を鍛えることなんじゃないかと思うんですよね。

 

基礎っていうのはつまり、例えば何か運動とか作業とかをするには、まず健康でなければいけないわけですよね。

 

運動睡眠食事とか、そういうのを満たした上で、その作業や運動の基礎的なこと、例えば文字がかけるだとか、ランニングで基礎体力を作るとか、そういう一段上の基礎があって、さらにその一段上に、バットを振る練習だったり、計算練習とか、そういう感じになってるわけじゃないですか。

 

 

つまり、ピラミッド構造というか、基礎の上にまた基礎があり、またその上に基礎があり…っていう風に、あらゆるスキルなり行動なりっていうのは、そういう構造になっているわけですよね。

 

 

そして、その一番下に近い部分にあるものが瞑想なのではないかと思うわけなのですよね。

 

あらゆるスキル、あらゆる活動をするうえで、やはり意識というか、そういうメンタル的な部分の基礎を鍛えるのが瞑想なのではないかと。

 

人はなんか大人になるに連れ、そういう、基礎的な部分をおろそかにするのではないか。

 

例えば、充実感とかを忘れ、とにかく仕事を済ませればいいやと思って、自分を犠牲にしてスピードを早めたり、夜遅く仕事をしたり、他人に辛く当たったりとか。

 

なんかそういう精神的な部分を蔑ろにしているわけですよね。普通の人は。

 

つまり、ピラミッド構造の頂点の部分付近だけを鍛えているわけですよね。

 

それだと多分、限界が来るわけですよ。

体を壊して何かを達成するとか、何かを犠牲にして高いパフォーマンスを維持しているわけです。

 

だからピラミッドの底辺の、基礎中の基礎を鍛えましょうねっていうのの一つが、瞑想何じゃないかと私は思うのです。

 

なぜなら瞑想っていうのは、正確には「何もしていない」のではなく、精神の基礎的な部分、精神の不動的な部分を意識することにより、より「不動力」を鍛えている、そういう感じがするわけですよね。

 

 

この不動力というのは自分の造語ですけど、どういうことかというと、この前の記事で言った、「心技体」でいうところの「心」つまり、「あらゆる場面において動揺せずに冷静に対処する。」ということだと思うんですよね。

 

割りと動揺することでパフォーマンスは落ちるわけですよね。

恐怖とか動揺とか、そういう精神の異常状態こそが、弱い人が弱い原因の一つだと思うんですよね。

 

そういう人っていうのは自分が見えていないみたいなところあるじゃん?

瞑想はそういう感じ、自分を見ることによって、どっしりしようとか、そういう感じ。

 

なんかこれは感覚的な部分もあるから、俺が「そうじゃないかなぁあ~」って思っているだけだと思うけども。

 

例えばウィパッサナー瞑想法っていうやつは、自分の感覚を言葉にするっていう手法の瞑想法なんだけども、それもこの仮説を後押ししているような気がする。

 

自分の感覚を言葉にするっていうのは、「結局のところそれってあなたの五感&感情ですよね」っていう自覚をもたらすことによって、「あっ、世界って”情報”にすぎないんだ」「だったら慌ててもしょうがないよね」っていう悟りを得るためのものなのではないか。

 

それこそがピラミッド構造の底辺を鍛えるためのものなのじゃないかと思うわけですよね。