創作をテーマにした作品ってあるよね。
漫画をテーマにしたやつとか、バクマンとか、タイムトリップゴーストライターとか、なんかあるじゃん。いろいろ。
でもさあ、そういう作品苦手だなぁ…って思うわけですよね。
でも勘違いしないでほしいのは、メタだから苦手なわけでも、感情的すぎるから嫌いってわけでもないんですよね。
まあ確かにメタネタって連発すると寒いっていう風潮あるけどもこういうのは別に根本的にはスポコン的というか、テーマが創作なだけで基本は熱血者だからメタとは違うと思うし、
感情的すぎるっていうのも、例えばなんかキャラの気持ちについてけないってことがあるけども、違うんですよ。
俺が創作をテーマにした漫画が苦手なのは、
「それ、俺の創作論と違う、だからキライ」
っていう、そういう感情ナンスよね。
じゃあまず、
エロチカの星 - 前野温泉 / 第1話 きらきらひかる | コミックDAYS (comic-days.com)
キサクな二人【第2.5回奇妙なボイロ劇場リレー投稿祭 7日目】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
上のリンクの作品を見てほしいんだけども、
これ、こういうの、割と苦手ナンスよね。
なんかさ、こういう作品あるジャン。
なんかキャラの一人が、作者の代弁的な感じでしゃべるやつ。
それで、なんかもう一人の生徒役のキャラに「いや、違う、君のベストは○○だ」とか「本当に君はそう思ってるのかい?」みたいに行って、成長していくさあ。
いや違くね?と思うんですよね。芸術って。
例えば、キャラクターが、「Aを選ぶかBを選ぶか…」って悩んでいて、それに対してもう一人のキャラが「いや君はAだ」とか、「Bだ」とか、「いやいやCだ!Cを選べ!」だとか、
そういうのが苦手ナンスよね。
なんで他人が決めるんだよって。なんかそういう、嫌だー!感があるわけよ。
俺はあまのじゃくだからさあ。
例えば、二番目のリンク、
キサクな二人【第2.5回奇妙なボイロ劇場リレー投稿祭 7日目】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)
ボイスロイド劇場で、ゆかりさんっていう未熟な小説家が、あかねちゃんっていう強つよ小説家に、なんかいい感じに調教されるっていう感じの話なんだけども。
もし俺がゆかりさんだったら、「は?なんだこいつ、何俺の道を勝手に決めてるんだ?」って思っちゃうわけよ。
それが完全に100%善意であり、それに従うことが小説家として大成する道だとしても、なんか俺はやだなーって思ってしまう。本能でそう思ってしまう。
っていうかさ、まあ子供のころならともかく、今の俺って、すごい大人とかに騙されてきた経験があるわけよ。
なんかさあ、分かるっしょ? なんか大したことないのに、偉ぶってるじゃん。それで人の人生を操作しようとしてくるところあるじゃん。責任とかもてねえのにな。
弱いなら弱いなりに正直に弱いっていって、そこからどうするか考えるでしょぉおおおお!!?
つよつよだって嘘つかないでよ!!とね
弱いなら弱いって言ってくれよ、分からないなら分からないって言ってくれよ!
とね
コドモっぽく思ってしまうわけですけども。
そんな感じでさあ、登場人物に共感してしまって、なんかさあ、そういう風にあまのじゃくが発動してしまって、なんか苦手だな。
うん。嫌いっていうよりも苦手だな。
その選択が正しいってなんでわかるんだよっていう。
もし俺が作るならば、
なんか教師役のキャラクターが「まあ、それでもいいか」って見放して、でもなんかゆかりさんが「やっぱり…!挑戦する!」っていうね。
そういう自発的な選択を入れると思うな。そうであってほしい。そうであってほしいという願い。
そういうものだと思うんだよね。創作とか芸術っていうのは。
自分で決めるっていうkと。
芸術って、自分の欲望とか、そういうものなわけで、
誰かに指定されてやるっていうのは、まあそれ自体はそれでいいと思うけどさ。
そういうふうに漫画って描かれてるわけじゃん。
なんかアニメとかも分担作業とかで、マネージャーみたいな人から「こうやってね」って指示を受けて作るわけだし。
そういうシステムは必要だと思うけど。
でもなんかこう、「これはお前の物語だ!」みたいなノリで、その実、自分の洗濯を細かく指示してくるのはなんかちげえなって。
それで、俺は思うわけですよね。
結局のところ芸術の本質っていうのは、「匂い」なのだと。
なんかこう、技とかではさいげんできない、そいつだけにしか使えない固有の感覚っていうのが、本質なのではないかと。
そしてそれを、見ている人も無意識に理解できていると思うんですよね。
なんというか、それは第六感だとか、そういう特別なものでもなんでもなく、
クオリアとか、なんかこう、
マタギに例えるならば作品という痕跡から作者の世界観を想像する、みたいな、そういう感じ。
芸術に技法はあるわけですけど、でもその同じ技法を使って、同じ対象を描けば、全員同じ完成になるかっていうと、違うわけじゃないですか。
なんか人にはそれぞれの、作品に対する感覚というか、気持ちというか、感情があるわけじゃん。
なんか二人以上の知ってる作家の作品を思い浮かべてほしいけど、それぞれが、互いに相手の作品を模倣することってできると思いますか?っていうと、それは無理じゃん。
例えば村上春樹が、西尾維新のような作品を完全に全くコピー真似して書こうとしても、それは村上春樹が出ちゃうわけじゃん。ページに。
その逆もしかりなんだけど。
その、感じてしまう作家の感覚が、芸術と呼ばれるものの本質だと思うわけですよね。
だから、「AかBか、どっちが芸術としてふさわしいか」ではなく、通った道がいつの間にか芸術になっていたみたいな。そういうものじゃん。
つまるところ自分と向き合って、何が自分の欲なのかを考える必要があるよねっていう。
それは他人にはわからないじゃんぜったいに。
でもそれを決めようとしてきたのが、今までの世界だったわけなんだよね。
写実派だとか、宗教だとか、学校教育だとかさあ、
これが正しいんだー!!って大声を上げたやつがいて、それを聞いてクソまじめに「あ、あれが正解なんだー!」って思っちゃう、そういう気持ち悪い世界なわけですよ。
そしてそれを無視して、自分で決めたやつが天才って呼ばれるわけなんだよ。
そして大事なのは「続ける」ことなわけっすよ。
クソでもノーモーションで作品を投稿し続けることによって、そういう空間みたいなのが自分の中に生まれて、勝手に成長していくと思うんですよね。
それを俯瞰してみていくことが大事だと思うんですよね。
なんか作家が言いがちな「キャラが勝手に動いた」みたいな、そういうのもその類だと思うんですよ。