昔の思い出 記憶、

昔、多分小学生とか幼稚園の頃、覚えていることがある。

 

正直恥ずかしいのでフェイクを多量に入れて言いたい。

 

それは、家族でおやつを買い家で食べようとしているときのことだ。

 

そこで俺は、俺のおやつ、あーんぱんみたいなお菓子を早く食った。みんな食ってないけど俺は我慢できないから食った。

 

 

そして、皆がおやつを食べるというときに、俺のはもうないから、「ずるい!!みんなだけお菓子食べて!」みたいになったわけですよね。

 

いやお前さっき食ったやろがーい!!

 

でも当時は本気でズルいって思っていた。

 

まあ子供だからね。しょうがないね。

 

 

で、親ななんか俺を甘やかすこと無く「いや違うだろそれは」ってマジレスしたわけですよね。

 

それでもなんか俺はそれに理不尽さを感じていたわけなんですけど、理不尽なのは俺の方だな。

 

っていうか甘いものにそんなに終着していた自分が懐かしいな。

今は、甘いものってなんか美味しいは美味しいけど、口に残るからヤダ。

あと虫歯とか健康とか、色々デメリットも多いし、そんなに食いたくなるもんでもないわな。

 

 

まあね、話を戻すけど。

これね、ホントありがたいなと。

 

 

そこで「ああうん、じゃあ自分のを少し分けてあげる」「やったー!」みたいになったら、だめになっていた気がする。

 

 

なんというか、俺がもし可愛くて、あるいは家族がそういうのを気にしないタイプで、そういうこともまかり通ってしまう感じだったら、なんか今で言うところの蛙化現象みたいな彼氏に払ってもらってる身分で「財布からカネだすのダサい」みたいに言ってしまう高慢な豚が誕生していたかもしれないと思うと、ヒヤヒヤするよね。

 

 

なんかさ、そういう見た目の良さというか、高潔さっていうのは、そういうところにあると思うんだよね。

 

他にも俺がなんか理不尽なことを言ってきて「いやそれは違うだろ」ってマジレスしてくれる記憶があるけども、

 

それってなんというか、恵まれていたんだな。と。

 

 

 

逆にさあ、そういう、自分になまじ力があったら、

 

例えば可愛すぎたり、イケメンすぎたり

 

あるいは金持ちだったり権力者だったり、

 

環境が有利すぎたりしてたらさあ

 

そういう身分の人だったら、そういう自分のワガママが、理不尽が、ある程度通っちゃうわけじゃん。

 

その結果が、たまにニュースとかで見る、傲慢な人たちですよ。

政治家だったりDQNだったり上級国民だったり半グレだったりさあ

 

そういう人って絶対謝らないじゃん。

その「謝らない」っていう、その感覚、なんか理解できちゃうんですよね。

前述したそういう「自分のワガママが通ってしまう」みたいな環境に実を置くと、そういう自分に精神的なダメージに対して脆弱になる。だから自分は悪くないってなっちゃうんだろうね。

 

なんかさあ、そういう人ってもう、世界が普通の人と違うんだろうね。

普通の論理で、合理的に考えると、「そりゃそうだろ」ってなることも、自分の中で捻じ曲げてまで「いや俺は悪くない。だって〇〇だから」って無茶苦茶な論理を通そうとしてくるわけよ。無意識にね。

 

多分本人にも悪意がないんだろうね。俺の子供の頃と精神性が変わってないんだろう。それが一番厄介なんだけどもね。

 

まあ、でも、いくら過剰に甘やかされて育ったとしても、普通にネットとかしてたら「あれ?俺っておかしくね?」みたいに気がつくのはあると思うけどね

 

 

なまじ上流階級だと、そういうネットとかもなくても過ごせるだけに、、ネットとかじゃなくてそういう自分たちと同じ身分の人と遊ぶとかできるわけで、気がつく機会がないってのもありそうだよな。

 

あるいはDQNタイプでも、身内同士でワイワイ騒いでBBQしてDQNの川流れリバーサイドって感じで、身内同士で楽しむって感じのことをしているんだろうな。

 

だからこそ考えが固定化というか、よくツイッターで言われているコア化?先鋭化?、みたいなやつの、上級バージョンなんだろうな。それって。

 

 

そういう点で、インターネットってすごいよな。

倫理的というか、道徳的というか。

より多くの意見を取り入れられるというか、自分とは全く関係ない人の意見を、それがキチガイでも常人でも天才でも、多くの種類の意見を聞けるっていうのは、すごいことなんだなと。

 

やろう、インターネット。

 

 

 

 

まあね、でも

 

俺は昔、そういうワガママなところがある一方で、深い部分では大人な部分があったわけっすよ。

 

大人な部分っていうのは、なんというか、結構理性的というか、

「こうしたらこうだからダメ」とか「こうすればこうだから良い」みたいな。

道徳的だったり倫理的な部分も同時に合ったわけだよね。

 

でも、なんというか、その思考自体はあるけども、実践として使えないというか、忘れているというか。

 

理屈は理解できても実践に応用できないって、スポーツとか、ゲームとか、そういうのあるじゃん。

格ゲーとかでコンボをいくら練習モードで出来たところで、実践で使えるかどうかは天と地の差があるじゃん。

 

なんというか、俺のそういう哲学的な内省的なモードと、外交的なモードでは、人格が違うというかなんというか、そういうのあるじゃん。

 

 

例えば昔俺は芸人というか、有名人になりたかったんですよね。

 

なんか根拠というか、何故そう思ったのかはわからないけど、すごいそう思った。理屈抜きで。

 

でも同時に「俺のことを知ってる人が全国に増えると、その中でアタマの可笑しいひともいるから、俺の身に危険があるんじゃないか」みたいなね。

 

だから芸人は諦めた。

今にして思えばその道を進んだほうが人生楽だったのかなと思わんでもないがな。

知名度は金になるからね。

 

その功罪はともかくとして、なんというか誰にも教えられてないのに、「世の中にはアタマのおかしいひとがいるから、ネットリテラシーは大事」みたいな概念が、小学生くらいの俺にはあったわけですよね。

 

別に治安が悪かったわけでもないというか、誰にも教えられてないのに、それに気がつくってすごくないですか?地味に。

 

そういうね、子供の時のそういう精神性みたいなのって、今の自分と全く変わってないなって思うわけですよね。

 

大人と子供ってそんなに変わらないんじゃないか、って中学生から少し思い始めてたし。

 

だから、なんか前述で話した、俺のワガママに対して「いや違うでしょ」って冷たく言われたら「あっ、そっか」ってすぐに納得してたよね。

 

なんかあの時の俺はブレーキが基本なくて、そうやって冷たく言われたから取り付けまくったところがあるよなブレーキを。

 

でもそのブレーキは最低限で良いというか、ブレーキを取り付けすぎてチャンスとかを逃しまくってるところがあると思うわ。

 

でもどうなんだろうね。安全とかを考えるとブレーキも必要だと思うけども、でも同時にチャンスものがしてるのがブレーキだと思うんだよな。