ず虐したくなる動画を見た。
【解説】スシローぺろぺろ事件から学ぶ裁きの構造【ずんだもんの哲学】責任の不完全性 (youtube.com)
「スシローペロペロ事件のあの少年を皆ネットで叩きすぎじゃない?責任は法律で決められるべきでそれ以上罰を与えるのは違うでしょ」、みたいな主張動画なわけだが、
なんというか私はこの動画を見てモヤモヤするわけである。
まあ自分がペロペロ少年が嫌いというのもあるし、まあでもどうでもいい存在というのもデカいだろう。
だが反論したくなった。それはちげえんじゃねーか?と言いたい。理論武装したい。
反論したくなったわけだが、まあ確かに客観的に見れば、ネットリンチは良くないよねというか、法律で決められた罰以上の罰を与えるべきではないというのは分かるが。そこは俺も同意するわけだが。
でも感情的になんというか「妥当でしょ」みたいな思いがあるのもそうなのである。
愚かな人類的なやつの中に俺も含まれているというのもあるだろうか?
でもなんというか、それ以外の何かがあるかもしれない。それで片付けていいのだろうか的な。
そう思う理由を考えます
理由1:ネットリンチは別に重くない、軽いと私は感じているから
物理的なリンチはやり過ぎではあると思うが、ネットで炎上したり特定するような行為は精神攻撃であり、まあそれで追い詰めるやつもいると思うけどこういう輩にとっては別にダメージ受けるのか的な。
それに10年もすれば忘れ去られる感じがするなぁ。それもなんか、かりぃな~と思う
理由2:この動画の序盤にずんだもんが余計なことを言ったから
「(他の飲食店にもこういうことをしているやつはいるだろうから、ペロペロしてくれてむしろ飲食店の危険性を教えてくれて)ありがとう」とずんだもんが言ったわけですよね。
いやそれはねえだろ…悪いことは悪いだろ。ありがとうとはならんだろ。
そんなこと言ったら無敵じゃん。悪いことに何でも適用できるじゃん。
極論を言えば泥棒したやつに対して「戸締まりや防犯の危険性を教えてくれてありがとう」とか、飲酒運転しているやつに対して「飲酒運転の恐ろしさを教えてくれてありがとう」っていうようなもんだろ。
ずんだもんの枝豆耳を引きちぎって「ほら、こんなことされるかもしれないから次から気をつけてね! んじゃ、その危険性を教えてあげたからお礼を言いなさい、あ・り・が・と・う、は?」って言いたい。
まあつまり、明らかに間違ってることをさも正しいことのように言ってるのがムカついた。
理由3:やったことがやったことだから。
なんというか想像力が高い人って、なんか排水口の裏の事を考えたりぼっとん便所とかきたねえ便所とか、ナメクジとかジャンボタニシとか、その汚いブツを想像するだけで嫌になるわけじゃん。まあだいたいの人はそうだろうと思うが。
その汚い便所の水を飲食店とかに持ってきてかがせる、みたいな。そういうのは万人にとってストレスというか、なんなら泥棒とかガチの犯罪よりも重いじゃん。心理的に重い罪なわけですよね。法律的には軽い方なんだろうけど。
そういうことをこの少年はやったというわけですよ。神聖な場所であるはずの飲食店においてそういうことをしたわけです。
そういえば飲食店繋がりで思い出したが、王将のナメクジ騒動であの人が捕まったという話があったが大丈夫なんだろうか。
まあとにかく、そういう、キムチの海の中をおっさんが裸足で入る、みたいなやつもかなり吐き気がします。
そういう精神性じゃん。日本って。まあ海外もかもしれないけどさあ。日本にとって万人にとってストレスになるようなことをしたわけで、だからペロ少年が嫌いなんだろうな俺も。これを我慢しろと? なんか参考文献とか引っ張ってきて「こうこうこうだから別にいいじゃん」みたいに言われてもね…「知るかボケ!!神聖な場所で冒涜したのだぞ!」みたいな
理由4:全員が特定に参加したのか?
思うわけですけど、この投稿者は、ペロペロ少年を真っ当に批判している人と、住所特定しているやべーやつを、ひとかたまりとして見ている気がするんですよね。
「ストレスを感じてそのはけ口にしたい人がペロペロ少年に過剰な罰を与えている」、みたいな言い方してるじゃん。
でも実際、冷静に考えればそんなわけないわな。ペロ少年アンチにもいろいろなやつがいるわけですよ。
なんというか、過剰な罰というのはこの場合、「特定」のことでしょ。それ以外のペロ少年の悪口は、仕方ないことなんじゃないのって思うわ。これ止めようとしたら言論統制だろ。自民党やナチスのやってることだわな。
でも前述の通り、この投稿者は「アンチ全員がペロ少年へ過剰な罰を与えた」みたいな印象をもたせるようなことを言ってる気がする。
動画より引用
ネットリンチに走る人はその動機として抑止や報復を理由とするのだけどその理由は結構危ういのだ
そしてこれらのやべーところは本音じゃないってことなのだ 本音はもっと単純でわかりやすく悪いことをしたバカが出てきたからそいつを皆でいじめようぜって感じなのだ。
弱いものいじめをしたいからやってるのに抑止や報復だと言った理由を持ち出しているってこと?
この投稿者は「ストレスのハケ口を見つけて叩いてるだけ」みたいなことを言っているが、それはどうなの?
なんで分かるんですか?何かそのデータあるんですか?っていうひろゆき戦法が正しく使えるわけですよ。
だってさ、普通に嫌じゃん。ペロペロ。ストレスとか関係なく嫌でしょ。心に余裕があるなしにかかわらずアウトなことじゃん。
普通に使う飲食店の醤油とかに他人が唾液をつけるってさあ…それに対して批判も言っちゃだめなん?
そして言ったやつは全員弱いものいじめしたいやつなのか?
純粋な社会正義のために言ってるやつもいるわけでしょ。あるいは50%はたしかにストレスのせいだが、50%は自分が気持ちよく飲食店を利用したいからっていう気持ちのやつもいるかもしれない。そういうグラデーションもあるわけでしょ。
なんで100%「ストレスのハケ口」って決めつけられるんですか? それは批判できることなのか?
まあそういうことですわ。
完全に理解できた。
なんというか「叩く」と聞くとすごい悪いことをしているように見えるが、しかし別に嫌なことは嫌と言えないネットもどうなの?って思うわけですよね。
そしてこの人の主な主張はおそらく「過剰に法律で決められた以上の罰を与えることは良くないよね」みたいなことなのかもしれないが、しかし批判が過剰な罰に該当するのだろうか? いやしないだろ。
あと、ある一定の集団の中の一部の存在をクローズアップして、それをその集団の全体だと誤認させるような手口。暇空も使ってたけど、れいわ知能という動画でれいわ新選組っていうすごい政党をこき下ろすために使ってたわけだけど、それも使用している気がする。
まあでも唯一、「特定」に関してはだめっていうのは同意だが。だがそれは寿司ペロ関係なく常にダメなことだろ。このテーマの本質とはあまり関係ない気がする。
それから、「アンチはストレス解消のために叩いている」という主張が仮に正しいとして、「だから寿司ペロ少年は悪くない」という主張は無関係な気がするわ。
仮にストレス解消のために叩いているとしても、それが結果的に社会的に良い方向に持っていっている可能性もあるわけでしょ。
「やーいお前らストレス解消してるだけで社会正義とかどうでもいいんだろー!」
に対して「ええ、確かにストレス解消ですよ、でも同時に社会正義です」みたいに反論できてしまうわけです。
別に「ストレス解消」であることと「社会正義であること」は矛盾しないわけですよね。
あと引用するなんやかんやがバラバラな気がする。こういうのを見せられても…混乱するだけで俺を説得はできない。
この動画が引用するなんやかんやは「ペロアンチのお前らは科学的に見てこーんなに浅ましい人間なんだぜ★」「俺は外部から情報を仕入れてるんだからこっちのほうが客観的に見て正しいな」みたいなことを言ってる感覚を覚える。
なんかけむに巻かれているというか、如何にアンチを悪く見せるかが焦点になってる感じがするわね
数字は嘘をつかないが詐欺師は数字を使う。みたいな格言があるが、つまり事実を列挙しているからと言ってその人の信頼が担保されるかは別問題みたいな。
それとこれとは全く別の問題じゃないっすかねっていう実例を出されても。
例えば、実在の殺人事件の冤罪を持ち出してたけど、対して寿司ペロ事件は冤罪になり得ないわけだし、罪の重さも寿司ペロ批判と冤罪加担、全く違うわけです。
果たして持ち出す実例として適当なのだろうか?
っていうか「裁判で決められた罰は本当に正しいのか?」みたいなやつに具体的な事例をだして前半の大部分を使っているが、別にあそこいらんだろって思うわ。
あと羊の例えとかいらない。
俺みたいな文章の組み立て方してんな。なんか、こいつの脚本の作り方が、分かるわ…捨てきれない感じが。特に羊のところ、せっかく書いたのに、捨てるのはもったいないと思って残してしまう…オレモソーナノ
あと、これもなんか身につまされる感じがすると言うか。
「自分は嫌い」と「社会的に正しくない」の区別がつかない人が多い→主語をデカくして盾にする人が最近増えた。それって楽なようで、自分の言葉を殺してるんだよな。 - Togetter [トゥギャッター]
なんかこれでも「”社会的に正しくない”って守護をデカくして言ってるやつは本当は”自分がムカついてるだけ”なのにそれを正直に言えない浅ましい人間だよね」的なことを言ってるわけだけど、
いや、それ一概に言えることじゃないじゃん。
それぞれのケースや人で異なるわけでしょ。
本当に社会的に正しくないケースもあるし、逆にその通り自分の主張を通したいために主語をデカくしているやつもいるわけじゃん。
なんか、Aという人たちは全てBであるみたいな、そういうふうに固定化するのはどうなのかって思うわけですよ。Aという集団には偏見通りBがいるかもしれないが当然CもDもEもいるよねと。
まあその傾向が極端に多ければたしかにそうって言ってもいいかもしれないが…
人によってAはCとも言えるしDとも言えるしEとも言えるわけで、
じゃあ偏見だけで世界は成り立っているのだろうかという問題になる。人によって見え方が違うという実例なわけですね。
例えば優しい日本人しか知らなければ日本人は優しいとなるし、厳しい日本人しか知らなければ日本人は厳しいとなる。
今回は寿司ペロだっていろいろな見え方ができるわけですよね。「どう見るか」だってサム8も言ってたし
おそらく、今のところ世界を正しく認識できるのは、真実を追求しようとする人の意識、正しい人達による話し合いであって、そういう固定化された単純なミームで全て片付くものではないでしょ
まあでも、逆に単純化しないといけないシーンもあるわけで
会社や政治とか政党については、もはや単純化しないと選挙で落とせないわけだからそうせざるを得ないってのはあるだろうな。
裏金党とか電通とかにもいい人はいっぱいいるだろうけど、その組織として嫌いだからアンチになるっていうのは正しいことでしょ。
対してれいわ新選組で外国人参政権がどうとかだからダメだとかアンチするやつはいるだろうが、仮にどんだけ悪く曲解したところで、れいわ新選組は組織として絶対に今の日本に必要な政党なんだよ。
問題は何がしたいかなんだろうな結局
あまりにも現実は複雑すぎるわけだから単純化しないとやってけないわけだし、その単純化のやり方というのはその人の欲求やスタンスに基づくものなんだろう
つまり評価というのは評価する人によっても変化するわけだが、将来においても全員が得することが「善」と呼ばれるものなんだろうな
極端に「今だけ」「自分だけ」が得することが善だというのなら、犯罪行為をして追い詰められても、罰を受ける直前まではその人にとってそれが「正しい」ってことになるからな。
結局、ただしいか正しくないかというものは、精神論ではなく、戦略的なものなんだろうな。無意識的に人はそういうことを判断しているんだろう。
広いマクロ的な範囲でどれだけ得があるかという評価で正義か悪かが決定されるわけです。それができない種族はだから滅びたになったわけです。