一般人のれいわ新選組山本太郎への印象は、松岡修造に対するそれと似ている

優しさ。で育っていないからね。

 

昔の、黒船来航だとか、明治維新とか、あるいは大正とかの文豪とか、誰か忘れたが、「日本人の精神が薄れている」だとか、そういう事を言っていた人がいたらしい。

グローバル化に伴い、日本人の助け合いの精神が薄れていっているということを危惧していたそういう人たちがいたとかそういう話を聞いたことがありますが、

 

その時代はそれが当たり前だったんだろう。例えるなら、海外の陽気な感じの、リオデジャネイロ的な、そういうアットホームな感じというか。そういうのが日本的と言われていた時代があったんじゃないか?推測するとそういう感じなんだろうか。サザエさん的なお隣から醤油を借りたりとか、見ず知らずの人と飲み明かすとか。まあそれは酒の力を借りたのなら今でもありえるうらびれた街の風景っぽいが

 

そういう、みんな友達みんな家族みたいな精神性が薄れているという、そういう危惧だったと俺は推測する。

 

そう考えると、確かにそうだなと。

 

自分が学生の頃、やっぱりなんかそうでしたよね。人と自分は違いますよ的な風潮。

 

いや、そもそも自分自体が、そういう気質だったのか。生まれながらにして。幼稚園や小学生とか中学生とか高校とか、まあ仲いい友達とかは確かにいましたけども、そういう蠱毒を好む傾向があったのかもしれないが、

 

そして、他人も、年齢が低いうちは、そういうみんな友達的な感じのノリでしたけども、年齢学年が上がるにつれて、そういう感じではなくなったと言うか。

 

俺とお前は違うよね。的な、それぞれが独立しよう、というノリ。

就職だったり部活だったり勉強だったり、お前はお前、俺は俺、という。

 

まあそれは立派な側面もあると思いますけども。当然なのかもしれませんが。

 

それこそが昔の文豪が危惧した日本人の精神製の喪失だったのではないかと。

まあ、俺は正直、そのほうが気が楽な気がしますけども。それとも環境によって左右されるものなんだろうか。

 

まあ何にせよどちらにせよ絶対に言えることが、この状態が、売国奴にとって都合がいいってことですよね。分断。それによって知識が共有されずらいですからね。自分たちがどんな犯罪に手を染めようが、自民党に次も投票してくれるわけですよね。独裁国家なわけです。

 

よく「未だに自民党に入れている人はどうかしてる」という感想がありますけども、その原因はこういった分断的な風潮も関係しているのではないかと。もしそういう家族的なネットワークが生きていたのなら、絶対に人づてでテレビを見てないお年寄りにも、「ジジイ次は自民党にいれるんじゃねーぞ」とか言えるでしょ

 

一方で、ネットとかSNSとか動画とか、そういう風に情報が拡散される世の中になっているわけですが。それも良し悪しですけどね。デマとかDappiとかいますけど。

いやプラスのほうが大きいのかな。れいわがいるおかげで。

 

なんというか、ちょうど良さを求められる社会ですよね良くも悪くも。逸脱してはいけないという。

メインストリームとしてこのぐらいの熱量が良いよねみたいな概念が社会にあって、それ以上もそれ以下でもいけないという。

 

その中で空気が読めてない人は、うざがられるか、面白いやつで歓迎されるか、もしくはそういうキャラクターで定着するか、

例えば松岡修造とかもそういうキャラクターですよね。いや、松岡修造本人というよりも、ニコニコ動画が作り上げた松岡修造というキャラクターというもの。

 

熱血、ある意味で言えばうざい。暑苦しい。だがそれ故に面白いというキャラ設定で一時代を気づいた松岡修造MADブームなわけですが、まあ彼に限らずあらゆるニコニコ動画キャラがそうなのかもしれないな。遊戯王だったり外山光一だったり東方だったり変態紳士だったりレスリングだったり淫夢だったりクッキーだったり、空気が読めないがゆえに面白いという。だがリアルにそういうのと関わるのはNGという。外山光一と話したいですか?というね。

 

そして山本太郎も似たような感じだと思うんですよね。彼の昔の話を聞いてると、ブレーキがない感じだったらしいじゃん。好きな人のTシャツを着たりとか、そもそも芸能界入りのきっかけのアレとか。いい意味で面白い人であり、悪い意味で空気が読めない近寄りがたいという感じの、

 

だからこその、空気が読めない故の、政治家になるという方向性だったんだろうなと。

だがそれはおいておくとして、ここで言いたいのは、一般の人による、山本太郎さんあるいはれいわ新選組への印象というのが、事情を知っていれば英雄、偉人、とかそういうレベルの人だと思うんだけども、一般人にとっては、なんかこう暑苦しい人みたいになってるのが、なんか不満ですし、同時にそれは仕方がないのではないかと。だって皆ネグレクトだもの。

 

なんというか、受検だとか、人は一人なんだ的な感じで育てられてきたわけで。それで誰も自分を助けようとしてないし、助けようとしてるやつはだいたい宗教か詐欺師なわけですよね。

 

そういう感じに、反射的にそう思わされるように出来てしまっている。昔はなんかこう、もっとシンプルだったんじゃないのかと思いますけどね過去の出来事とかを見ていると、なんか「なぜ木村政彦力道山を殺さなかったのか」っていう本とかそういう昔のことが書かれている本を見ると、なんでそこで怒ったり笑ったりするのかみたいな、直線的だなと言うか。現代とはかけ離れており、それはおそらく貧困化したことで、あとお受験戦争とか、そういう感じになったのかなと。サリン事件とか、宗教がタブーになったというのも。ある意味で他人との信用というか繋がりを阻害する要因になったのではないか。マコモ湯とかヤマト缶とか、そういうのは恥ずかしいことっていうのは昔も変わらないんだけども、なんか放置されてる感じになってきているよなと。昔はオウムの人は面白いとか弁当屋ができるくらい親密だったのが、今ではヤバいよっていう風になってきており、それはいろいろなところに現れてるんだろうなと。昔はそういう危ない人もなんだかんだで仲間だよな面白いよなみたいな風潮がなくなってきてるのではないか。そういう感じで受け入れられていたが、一方で今では孤立して、ますますその宗教に依存するみたいなところもあるのではないか。今のそういう風潮は騙されにくくなった反面そういうデメリットもあるのではないか。あるいはレッテル貼りやヘイト的な感じで利用されるという。

 

故に、れいわ新選組山本太郎の直線的な行動力っていうのは、今の社会の風潮にとって、怪しいと感じられるものになっているのではないか感情的に見て。理性的に見て一番信頼に足る人たちだと思うが。

 

ある政治系YouTubeの動画で、その中で「れいわも疑ったほうが良いよ」的なことを我が物顔で言ってて、ちょっとムカつくなと思いました。まあ確かに、どんなに良さそうに見えてもすべての政党を疑えというのは正しいわけだが。だが実際れいわに政策の麺において怪しいところはありますかと。なのに何故かこの期に及んで「令和に対しても信用しすぎるな」「れいわも疑え」、との言。

あと三橋貴明もちょっと塩対応だったりとか、参政とか国民民主とか明らかに地雷を良い風に紹介しているわけだよね。

 

何も知らない人が、れいわに対してそういう感じなのは良いですけど、ある程度知ってる人たちがれいわを否定・・・ではないが、肯定はしてるけどちょっと冷たいような気がするのは、おそらく前述のように、社会的な風潮のノリによるものなんじゃないかと思うわけですよね。「あまりにも過剰にいい人」が「胡散臭く見える詐欺師に見える」という。そういうベストを選びたくない的な觀念を植え付けられていると思うんですよね。鎖に繋がれたゾウは大人になって鎖をほどいても逃げない、というのと同じように、超良い選択肢が目の前に出されてもそれを選びにくい、みたいな。

 

なんというかね、三橋も鶴見も、「ああ、れいわね。良いんじゃないの?」みたいな感じというか、そういうクールな俺みたいなノリなんでしょっていう。違ってたらごめんだけどさあ。そうやって世間に合わせようとするっていう。まあ良いけど。人の目を気にしておられるんですかねと。

 

なんだろうね、人を無条件に信じるのも怖いが、逆に信じないことはこういうデメリットもありますよねと。

例えば東洋医学とかオカルトと言われますけど、中には全然効かない100%ダメな治療法もあるらしいけど、一方で鍼治療とかは原理はわからんがなぜか効くらしいです。じゃあそれは信じたほうが良いよねっていう。オカルトだからヤマト缶やアルミホイルみたいに一緒くたにして全部ダメっていうのは損だよねっていう。まあそれもプラシーボ効果があると思うから一概には言えないし。

 

そういうのと一緒にしたらアレだけども。なんかこう、地下鉄サリン時間で、そういう信じる力みたいなのがなくなることで、良くなった面もありつつ、悪くなった面もあるよなと。

 

でもれいわに関しては信用すればいいじゃんと思うけどな。客観的に見ても一番信用できるわけだし。最初に言い出したわけだろ消費税廃止を。あと国会の発言だったりとか、馴れ合いの茶番国会から冷遇されてるわけじゃん。プロレスだったらそんなことしますかと。

一度キャスティング・ボートを握らせて、試してみて日和ったらアレだけど。試さないうちに「ダメだ」って切り捨てるのはどうなのよと。

海に溺れて死にそうなとき、手を差し伸ばされて「こいつは俺を殺しに来たのかもしれない」とか考えますかね。

まあ他にも手を差し伸ばしている奴はいるが、毒手だったりとか後ろ手にナイフを隠し持ったりしてる中一番信用できるのがれいわなんですよ。溺れそうなのに「れいわも疑え」とかそんなこと言ってる場合じゃないでしょ。

 

実際どうすんの?れいわがダメなら。あなたがやりますか? 

 

え?俺?

 

俺の場合は、もう殺される~というレベルまで追い詰められないと動かない。あるいは金、健康、他すべての側面においてすごい余裕が出来たら。ボンボン相手に無双できるくらいまで色々とリソースがあれば、まあそれは実際やらないと言ってるようなもんだが。

 

でも一方で山本太郎の場合、「議席が伸びるまで待ってたら日本が滅びるんです、だから今できることを徹底的に破る必要がある」という趣旨のことを言ってたけど、分かってると思うわ。本気の人。相当のすごい人だと思うわ。俺だったらもっとお金が貯まるまで芸能人を続けて…ズルズル時間だけが過ぎていくっていう。結局やらないっていうことが予測できますわ。まあ山本太郎の場合は芸能人ゆえの成功体験だったり、資金麺とかで余裕があったりしたから取れた決断でもったんだろうけども。でも無謀というか、ちゃんと時間をかけて準備をしてから行けば楽だったはずなのに、行ったわけですよね。

 

だからポスターとかに「バカにしか変えられない」って言ってたわけですよね。半端に賢かったらここまで出来ませんわ。

こんな人他にいますか?っていねーかハハ。って感じで、なんというかここがすごいところだと思うわ。だから応援したい。

 

なんかさあ、こういうと「れいわ信者だw」とか言われるかも知れないけどさあ、それこそ現実が見れてないというか。あんたらがれいわを否定する材料っていうのは結局デマ以外だと、山本太郎の一直線さが受け付けない人だと思うわけですよ。自分がひねくれてるから違いすぎて怖い、拒否反応がでてると思うんですよね。あんたらには同じことできんのかと。地位や名誉や好きな仕事と高額報酬があるのに、意地だけでそれを捨ててキツイ仕事できんのかよと。なんというか、自分がこういう生き方は絶対にできないわ。だからこそ彼に対しては絶対に勝てないというか、素直に尊敬できる。

 

信じないことで今まで楽してきてるんだから。選挙だけれいわを信じればいいと思いますけどね。すべて大昔みたいに暑苦しくある必要はないと思いますけど、選挙だけは、こういうさあ、ひねった考え方というか、「戦争が技術を発展させてきたのだキリッ」みたいなそういう逆張り的な考え方はやめたほうが良いよね。なんというか、昔の良いところと今の良いところを併せ持つ♣必要があるよね。

 

今そんななめプする余裕じないじゃないですか。自分個人についても、いつ病気や事故とか、あるいは世界情勢的にどうなるかわからないわけですからできる限りベストな判断を取れる限り取らないと行けないんですよ。それに今科学力を積極財政で加速させていけば自分が高齢者になって死にそうな時にらくできるかも知れないですよね。不老不死とか夢じゃないと思うんですよね。100年以内にできそうな気がするけど、もっと早くやればもっと助かる人が増えると思うんですよね自分の大事な人とかさあ。

 

だから、常に正しい選択をするべきなのに、なんか舐めプしますよね。おめーら。まあ俺もだけどさあ。

 

そういうひねった考え方というか、悪そうなやつを応援するという、そういう逆張り精神が国民民主の人気の原因だったんじゃないかと思うわけです。血を見る覚悟とか軍拡とか、そういう自分や他人を虐める方向に彼らは進んでいますが、それは自傷行為似すぎないし、他人を巻き込むということで洒落にならないし絶対に後悔するんですよ。半分自分は死なないとでも思ってるんじゃないかっていう。人は死ぬぞ?っていうね。バンジージャンプに飛ぶ数秒前に腰が引けるやつしかいないんだから。日本人は臆病だからこそいいんじゃあないか。遺伝子的にそういうのは向いてないと思う。てか人間自体が弱い存在なんだよ。

 

だからこそ選挙だけでいいから直線的になってくれよと思いますけどね。れいわなんだよな。国会だけ政治だけさあ、そこだけそういう江戸っ子的な。マジレス的に。だって命がかかってるわけですし。半分冗談で投票するとそれで人が死ぬんで普通に。