臓器くじとかいう話がありますけどね、健康な一人を殺して10人救えるなら、それを実行するべきか、というそういう倫理観テスト的なトロッコ問題的な話。
トロッコ問題と違うのは緊急的なものでも個人の判断でもなく、国全体でそういうシステムを作ろうみたいな話です。
そういう意味でトロッコ問題というのは現実的にあまり話し合うべき例題として不適当なのではないか、だってトロッコ問題は個人の判断の問題だもの。
臓器くじのほうが良いのではないかキャッチーさがグロに寄っちゃうけど。ギミック的な意味でトロッコ問題のほうが万人受け寄りでキャッチーでネットでキャッキャしながら大喜利できるからその点で最適かもしれないが。
まあ、そういうことですよね功利主義って。全体の幸福の総量が増えるなら、意図的に人を不幸にして良いのか、と言う問題。(まあ正確に言えば功利主義は定義的に幸福の量を増やすということだから自由の侵害とは別問題かもしれないが、実際のところ功利主義を語る上でそういう問題が挙げられる)(あと功利主義って言ってるけど全体主義に置き換えても良いはず)
ですが思うのですが、このやり方っていうのはこの世界に普通にあるものですよねと。
例えば犯罪者を刑務所に閉じ込めることもそうですよね。犯罪者が幸せに犯罪をして幸せになってるのを捕まえて、閉じ込めることで全体の幸福の総量が上がってるわけじゃないですか。
功利主義ですよね
自業自得的なやつですから当然じゃないかと思うかもしれないが、、じゃあ例えばこれはどうだろう
最初〇〇丸みたいなやつから日本に最初にコロナを持ち帰ったとされる旅客がいたじゃないですか。それで「なぜ帰したんだ」みたいな批判がありましたけど。
それも、当然あの客をそのまま帰さずに、ちゃんと完治するまで完全隔離するほうが良かったわけじゃないですか。それを否定することはあまりできないと思いますけど、それも功利主義ですよね。
あの人達は犯罪者ではなく自業自得ではないわけだかが、自由を制限したほうが全体の幸福の量は明らかに上がったよねと。
そして、コロナ禍で飲食店の自由を制限したり、あるいはコロナワクチンで人が多少死んでも良いみたいなことを言ってる人もいるよね
(まあコロナワクチンについては別の問題があるけども、何にせよ少なくともソーシャルワーカー的な人はあの時点での不完全なコロナワクチンを打たないと行けないっぽかったわけだから、低確率とは言えそういうリスク犠牲をそういった人たちの中から許容せざるを得なかった状況だったっぽいんだよね。まあ実際は政府がインフルエンサーを使って不完全なコロナワクチンを使わせて犠牲を出したわけだけどな。)
少なくともそれが正しかったという人がいるわけで、実際のところ功利主義的な思想は既にある
まあそういう特殊なケースじゃなくても、仕事というものそれ自体が功利主義ですよね。自分の時間を犠牲に全体のためにやってる人が大勢いるわけじゃないですか。
だから本当はそういう職人や専門職の人は、頭が上がらない存在のはずなのに会社が不当に扱っているわけですけどまあそれは不況だから中小企業は仕方ないところもあるんだろうけど
まあ結論、どのくらい自由を侵害するのを容認するのか、その程度に寄っては許されているということなんだろうね。
人を殺すというのは許されていない、臓器くじだったりとかが許されないだろうっていうのは分かる。でもブラック企業は仕方ないよね的な風潮。それも人権侵害憲法違反だけどな冷静に考えなくても。
そしてそれがこれからは許されなくなってくる、自由を侵害する度合いがこれから先どんどん少なくなってくるのではないか。逆に言えば自由侵害型の功利主義とは過去のものになってくるのではないかと。
いわば功利主義とは宗教の変遷に似てますよね。宗教の役割は心の平穏をもたらすものだったわけだけども、現代においてそれはいわば時代遅れのものになりつつあるわけじゃないですか。
それと同じで、功利主義とは過去の遺物なのではないか。あるいは過去の遺物になりゆくものなのではないか。
昔は全体が生き残るために戦争だったり生贄が必要だったかもしれないが、現代においてそれはふさわしくないし、同時に未来においてもっと犠牲を減らしていこうという方向になっていくだろうと。そうならないといけないんだろうね。そのためには積極財政れいわしかないわけで。
そしてもう一つ言いたいことがある
功利主義的な思想はこの世界に普通にあるものかもしれないが、それを言葉に出すということが間違いなのではないかと思うわけです。
言葉に出すというか、そういう概念を発見し、そしてそれを進めていくようなことが間違いなのではないかと。特に政治家だよね。
まあ、「全体の幸福の量を増やし、そしてその過程において一切の犠牲も出さない」、という意味での功利主義ならば、逆に政治家としてふさわしいと思うが、
しかし実際のところ功利主義とか全体主義とかいうのは、「犠牲も出すけどこれは世界のためだから許してねテヘペロ」って言ってるのと同義なわけですよね。
そしてそれが同時に予算を減らして人を殺していくということを正当化していくことなわけじゃないですか。前に自民党がやろうとしていたことですよね。あるいはやってきたことだよねと。
いわば極右の理論ですよね。「お国のためなら我慢しろ!!」「今は有事なんだから個人の自由を侵害しても仕方ないんだ!」っていう。
結局悪い意味での極右だったり左翼だったり、全体主義とか、あるいは共産主義関連の闘争とかもそうだけども、「この目的を達成するためにどれだけの犠牲を払っても良い」、っていうそういう思想が危険なわけですよね。あるいはそこに潜む悪意や怠慢ですよね。
それがなければっていう話。そこが大きな問題点であり、本質だと思うわけです
例えば「全体主義」を例にするが、全体主義っていうのは本当に賢い人がやりさえすれば悪いことにならないのかもしれないと思うんですよね。
「全体のために個人を犠牲にすること」は、逆に「全体のためにはならない」と思うんですよね。
だってそれによって人々の間に恐怖が生まれるわけですよね。次は自分の番かもしれないと。それにより、どうしても全体の幸福の量が下がるわけじゃないですか。
あるいは、逆に言えば「個人を犠牲にさえすれば楽に問題は解決する」というい楽な方法を指導者が取ってしまうという問題もある。
その幸福最大化のための犠牲は、もしかしたら最小限に止めようとする努力を最初のうちはあるかもしれないが、次第に慣れてしまったり、あるいは次世代が暴走する危険性もあるわけですよ。
それとは別の例としてSTAP細胞を挙げますけど、まずIPS細胞というのがあって、それは実現可能な技術らしいけど人の卵子を使うからそれは人殺しだということで、卵子を使わない技術がSTAP細胞らしいです(うろ覚え)
ですけど俺は「いや別にそれは人殺しにならんやろIPS細胞ができるならそれでよくね?」って思ってたわけですよ。でもこれもある意味で悪い意味での功利主義だったのかもしれないわけですよね。
まあそれが人殺しであろうがなかろうが、そういうどんな犠牲も許さないという精神が、違う技術を生み出そうとしていたわけじゃないですか。
そういう努力を怠ってしまうわけですよね。功利主義というのは。楽な方向に逃げるな、卑怯者。っていうことです。
つまり功利主義というのは頭良さげに見えて、実のところ、その、あまり物事を深く考えなさらない方たちが言う理論だという話です。成功者や権力者っていうのはある意味でアレなのかもしれませんね。なんかよく「〇〇さんは頭いいですけどね~」とか言われてますけど、アレは皮肉なのかもしれない。
何も考えずに挑戦して、たまたま生き残った人が成功者と言われる世界ですからあながち間違っていないかもしれません。
話はそれるけど、一兆円を盗んだ男という本の、リチャードなんとかと言う人も、常に確率を考えて行動するから合理的だとか言われてますけど、逆じゃないですか? 全く合理的ではないでしょ。100万が80%の確率で見つかるから80万持ってるのと同じ、みたいな話があるらしいですけど、明らかにそうじゃないでしょ。天才エピソードみたいな扱い方だけど明らかにおかしいだろ。
結局成功者と言われる奴はたまたま成功したという偶然による部分も大きいと思います。努力はむっちゃしてるんでしょうけどね。でも皆それを目指して崇められていくわけですよね。
成功してない世界線の〇〇キンがこの世にはゴロゴロいるわけですよ。でもその中で崇められるのは一人だけなわけです。たまたま成功したヒ◯ルキンだけが蜜を吸える。そしてそういった偶然によって上り詰めた感じの人がきもちよ~く語る言葉が「真実」になるわけですよね。人間って面白ッ
そしてそれは政治家も同じだよね。たまたまそういう家庭に生まれたという運の人しかほとんどいないわけじゃないですか。正しさではなくコネとカネというパワーの人。
そういう奴が正しいことを言えますかと言う話。真に受けるのが間違っていると言うか参考程度でしょう。
なんか実際の人物を出したことはアレだけども、その人達に恨みはないけども、なんというか、つまり権威ではなく、正しさを求める心が大事だということです。
「成功した人が言うんだから正しい可能性が高い」って考えかもしれないですけど、逆に言えば可能性が高いってだけです。自分に合ってないこともあるわけですし
まあ話は戻るが、なんというか、つまり俺が言いたいのは、政治屋やインフルエンサーの掃き溜めが言う「全体主義」というのは、「全く全体のためになっていない」ということですよね。ただの言い訳に使っているだけっていう。
そういう「形だけ体裁を整えればどうなろうが良いだろ」っていうことをずっと国はしてきたわけですよ。「形だけ謝ればいいや」だとか、「支給すればOKならどんなに低額でも良い」とか。
だからこそ政治には思想が大事と言われるわけですよね。単なる形式や言葉ではなく、「なぜ」それをするのかしないのかが大事。そういうことを法律の専門の人たちでも言われてるらしいです。意図を理解することが大事だと
そして、功利主義的な、「全体の幸福のために個人を犠牲にする」、ということも、大小あれこの世界では起きますけど、それは今後減らしてゼロにし無いと行けないということですよね。それが本当の功利主義じゃないんですか?
そのためにはれいわ新選組しかないということです。
他の政党は何を言っても、最終的に悪くすることしかしないんだから。そうやってさ、ガキがよくやる「これあげる、あーげたっ」って遊びなんだよ。言葉だけで心がないんから。
例えばスパイ防止法とかも、良いこと言ってるふうで、実際はスパイ以外を捕まえますっていう法律だろ?他にも消費税だとかインボイスだとか社会主義だとか、色々な「いいことします」風のこと言って詐欺してきたわけだろ?
だからもう、信じられるのは心しかないだろと。れいわしかないだろと。大事なのは「言葉」ではなく「意思」なんだわ。
合理的に考えても、れいわが詐欺政党ならなんで国民民主参政党といっしょに政権与党と馴れ合わなかったのって話にもなるし。その意思をこうやって覚悟の行動で示したわけだろ? 牛歩とかデモとか質問会とか消費税廃止を言い続けて意思を示してきたわけじゃん。
なんかやたられいわ山本太郎を敵視するコメントとかあるけど、だったらお前の意思は何なんだよと。
衰退させたいならばそれでいいが、日本を救うためだったとしたら、れいわが嫌いでもれいわを伸ばすしかないんよ。