なんかよく言ってますが、政治系のコメントとかに「投票行かなかったやつは責任取れ」ということを書いている人がいますけども、でもそれは本人が悪いっていいたくなる気持ちもわかるが、意図的に情報を流されなかったのも大きな原因ですよっていうことを言いたい。
ということを言っていますが、なんかもう、知る権利とかではなく、知る義務が必要なんじゃないかということを思ったわけです
だってさあ、自分たちが生きている基盤というか土台というか、それは働いている人たちが作っているわけでしょ。
例えば自分が普段使ってるいろいろな商品というのは、仕事している人たちが作ってるわけだろ。
ときには労災とかもしてひどいことになる人もいるわけじゃん中には。
なんでそういう人に感謝しないんだろうねっていう。
そして、それをないがしろにすることをしてきているわけじゃん政治は。
そしてテレビの忖度によって政治がアホであるというkとを知らされていないわけですよね。政治の無関心、投票率が50%だったり。
間接的にですけども蔑ろにしているのは一般人も同じなわけです。
いや、介護されてるのに、なんでお礼言えないの?っていう。
お礼っていうか、知るべきというか。それを知ってから選挙行く行かないとか、誰に投票するとか決めるべきですよね。
だから知る権利ではなく、知る義務があると思うわけですよね。
なんというか、それとは関係ないけど、一方で「労働する義務」っていうのは、よくないと思うんですよね。
だって今みたいな社会状況なら働いても損なわけですよね。ニートが一番ベストな選択なわけです。働いたら幸福追求ができないわけですよね。憲法違反なわけです。
だからこそ「労働する義務」っていうのはハテナ?なわけですけど、一方で「知る義務」ならばありだと思うわけですよね。
だって知るだけっていうのは、誰でもできるわけですから。数秒数分、一瞬でできるわけですよね。だから義務にしたところで大きな負担ではない。
負担があるとしたら精神的なものですけど、精神的なダメージがあるからと言って遠ざけては問題解決できないし、嫌なら投票や活動でなんとかできるわけですよ。
それを含めての投票こそが民主主義でしょ。
知る義務とセットならば、投票する義務はありだと思うんですよね。
山本太郎が投票する義務について聞かれた際に、「でもそれは誰にいれるかの判断も必要。そうじゃないとプロパガンダでやられるかもしれない、どうなるかわからん」みたいなことを言っていたわけですけど、
でも俺は正確な情報が与えられているならば投票の義務もセットになっても大丈夫だと思うわけですよねプロパガンダが問題なわけですから
知ることが必要。
そういうことを思ったのは、なんかアレですよね。正確に伝えてないよなと思ったわけですよね。忖度報道だけじゃなくて、通常の報道でも、なんかこう、衝撃を与えないために婉曲な表現をするみたいなことがあるじゃないですか。
「命は助かった」みたいなニュースがあるとして、でもそれは手足がなくなってますとか、常に痛みがあるとか、歩けなくなってるとかのこともあるらしいじゃん。
それはなんか、ダメだと思うんですよね。正確に伝えるべきだと思うんですよね。
必死さが足りないと思うんですよね。例えば「可愛そうだから科学に投資するぞ」とか「政府に投資させよう!」っていうムーブが起きてもいいはずじゃん。再生医療だったり。
何でもやりようはあるのに、やってないのは、できないからじゃなく、知らないからなんじゃないですか?
他にも憲法改正や集団自衛権などの戦争リスクに関しても、なんかヒロシマ・ナガサキとかのアレとかを時代とともに優しく表現をしたからこそ、「血を流す覚悟は安全保障」(アホ)みたいな中ニ病タマキ信者が生まれるわけですよね。
なんかはだしのゲンが規制されたとかどうとかっていうニュースが合ったじゃん。
戦争で安全保障ができるんなら、ウクライナみたいになってもいいってこと?! わかるでしょアホでしょ。負の歴史から全く学べてないのは痛みを知らないからじゃないですか?そしてそれは痛みを隠したからなんじゃないですか・
そしてそれらの禍根は、今も続いてるわけですよね。人々が興味ない興味が移ったあとも残り続けるわけです。
例えばコロナワクチンとかの問題とかも、死亡者とか、後遺症がある人がいるわけですよね。なんか解決したみたいな空気出してますけど、今もずっと残り続けているわけですよね。あと被災とかも、被災後のケチケチ支援とかも、原発もそうじゃないですか。
であるならば、その当事者に毎日インタビューし、毎日どうなってるかを何度もテレビなどで知らせることが理想だと思うわけです。「今日はこういうことがありました」っていうことを日常的に流す事が必要だと思うわけです
それが仕事だろ。ニートテレビ局さーん? ウンコみたいな報道お疲れ様っす。きもちいいっすか?
まあ、なんかいろいろな人が言ってるようにオールドメディアが悪と断じるの云々みたいなことは分かりますけど。
でもオールドメディアがカスといいたくなるのもわかる。言ってもいいだろ。犯罪者の片棒を担いだ縁の下の力持ちさんをよう。たまに正しい情報があるからとか、人殺しのヤクザが子猫に餌ヤッたからすべて許せとか言われてるみたいで、、こっちだけが「公平になれ」とか言われてるみたいで、なんだかなー。
まあ、いい人も働いてるんでしょうけど、それはわかるけど、日本衰退の大きな原因の一つになったのを忘れちゃいけないよね
知る権利を大きく侵害したテレビさんの罪は重いわけで、それを擁護するってどうなの?ッと思うわけです。
「元性犯罪者にも、いいところはあるよっ!」って言って、それが実際正しいとして被害者は許せるか?お前らは許せるか?
そういう穢れ的な意味で、「オールドメディアが悪と断じるのは良くない」論というのは、まあただしいいんだろうけど、ムカつく。そんな権利なんてねえわ。
話はそれたが
とにかく、人々がそういう大事な情報を与えられているならば、私が予想するに以下のようになると思うんですよね。
1正確な報道(事故とか病気とかがあります)
2この世界は危ない
3だから技術を高めて危険度を下げていこう
4そのために科学力やインフラ保持に金をかけていこう
5そのために政治をしっかりさせよう
6選挙に行こう
そういうことです。それをするべきだろ。せっかく科学だったり国力があるんだから。自分ひとりだけ頑張ったとて。それも大事だけどベストを尽くすなら政治を良くしていくことも大事だろ。
なんというか自己責任自己責任言うとりますが、全人類介護されてる存在なんだよね。技術とか、文明とか、運とか、過去の偉人達に生かされているわけっすよね。何が自己責任だよっていう。
なんというか、その一方で、猫とか助けたり、アイドル追っかけるとか、カミサマを信仰したりとか。
それは良いことだけども、それはこの文明基盤があってこそできるわけでしょ。ならそれを維持してさらに発展させることこそが、猫や推しに対して更に貢ぐことができるわけで、winwinなわけですよね。
なんというか、好きなものがあるならば、その好きなものを手放してこっちにリソースを注げって言わないけども、両立が必要というか。そのほうが更にできますよっていう。今のままだといずれそれすらできなくなりますよっていう。
(まあリソースというか、できることは投票とか話すとか、その程度のことなんだけど、リソースそんな必要か?っていう。投票程度のリソースすらないとか、仕事辞めて病院行けよって話でしょ。)
これは普通の理屈でしょ。
なんで皆そうならないんだろうね。今までなぜそうならなかった?
そこが、私が人類に対してやれやれと思ってる部分だと思います。私でさえわかるのに、なんで過去の人類はそれをしなかったのか?
平和とか基盤をしっかりすれば、もっとあらつることがよくなりますよって言ってよ。
だから「戦争しないと技術が発展しない~」とかうんち論が蔓延することになるんだよ
そういえばなんか最近のゆるなんとかラジオで、世界平和のために色々頑張ったけど、戦争が始まって潰されたみたいな歴史が紹介されていたが、だからそうならなかったんですかね。
しかし今こそまさしく平和のために色々考えたり作っていくべきなんじゃないかなと思いますよね。SNSとかネットが発達して人間以下カスどもによる情報操作が難しくなった今だからこそ。
あと、話はクぁるが、なんというか言葉による教育というのは、それだけじゃなんつーかダメなんじゃないかと思うわけです。なんかそれ一人で自主学習するのと何が変わるんだろうっていう感じです。
学校なら学校ならではの教え方があると思うんですよね。
例えば、教育の一環として、災害避難を、もっと高い精度でシミュレートするべきだと思うんですよね学校とかまちぐるみで。
そうしたほうがわかりやすいと思うんですよね。なんというか、恐怖を与えるという意味で。いい意味の恐怖を与えるという。
例えば、小学生とか中学生とかのときに、子どもに知らせずにいきなり準備とか告知もなしに、親や学校が「地震だ!」って言って、サイレントかも鳴らして皆で寒空の下避難するわけです。そして数日体育館で避難生活するわけですよね。
そして「はい、嘘でした^」ってネタばらししつつ、「でも実際こういうやつがいるんだよ」っていうことを教える。
そういうね、たかが数日の経験何だけど絶対にそのほうが「わかる」でしょ。
まあこういうことがあるっていうのは兄貴から教えられるかもしれないが、時期はずらして行うということで問題は解決。いつそうなるかわからないというドキドキ感。うざいかもしれないが、そうするべきでしょ地震大国なんだから身を持ってわからにあと行けないわけですよね。
わからないということが無関心に繋がっているわけですよ。
例えば能登半島地震とかでも、体育館に避難しているやつに対して「他県に移り住めばいい」だとか、あるいは被災地で問題行動を犯してるやつに対して「こんな心無いやつがいるんだ!」みたいに憤慨することはないと思うんですよね。
そりゃストレスマックスならそういうことになるのも分かりますよ。
暇空みたいに「食いしばれ!」みたいに言うことも無いと思うんですよ。
更にそれに加えて現実は支援が行き届いてないわけですよね。ってなったら「え?今も避難してるのか?!」ってなると思うんですよね。
熊駆除に反対するアホというニュースがあったりするけど、そいつも間近で熊を見てればわかる様になると思うんですよね。
まあ、なんつーかドッキリの案はめんどくさい、やりすぎかもしれないが、他に案はあるはずですよね。もっと案をだしていくべき。
例えば、今ウクライナやガサとかで戦争が起きてますけど、それに対してなんというか無反応すぎじゃないですか。日本は。能登半島地震の被災ですらあまりじゃないですか。まあ忙しいとか、色々あるんだろうけど。
なぜ騒がないのかっていうと、やっぱり、生々しくないからだと思うんですよね。死亡者何人、って出されるだけだと、やっぱり実感がわかないんですよね。
なんというか、ヒロシマ・ナガサキを経験した人の体験談だったり、沖縄戦とかのそういう体験談もそうだけど、やっぱり生々しさが足りないと思うんですよね。本人が言うだけじゃ。なんというか、わかりやすさが足りないと思うわけですよ。
それはおそらく、本人も忘れたいっていう気持ちもあるのかもしれないが、やはりここを合理的に考えて、どうすれば生々しく感じさせることができるのかって考えると、やはりリアリティなんじゃないかと思うんです。
例えば一例ですけど、片腕がなくなった人とか、心がおかしくなった人とかを目の前にすれば、やはり多くの言葉よりも、それだけでわかると思うんですよね。恐ろしさというか空気が。
あと、被害者たちの”より多く”の情報を伝えるべきだと思うんですよね。”より多くの”というのが重要で、被災とは直接関係ないことでも伝えるべきだと思うんですよ。
例えば被災の直前何をしていたかとか、何を食べていたとか、その時誰と話したとか、被災の直後どこを歩いて誰に何を話して、そのあとどうやって生活したかとか、現代になるまでどうやって生活していたかとか。何が楽しかったのか、何が辛かったのか、何が救いになったのか絶望になったのか。どんな遊びをしていてどんな本を読んでいて、とか。それを細微に再現する。関係ないことでも何でも書き起こす。
被災とは関係ないことを”すべて”伝えることで、やはり「生々しさ」「リアリティ」が伝わると思うんですよね。だからこそなんというか当時の出来事をテーマにした戦争映画ってより”伝わる”んじゃないかと思うんですよね。なんかトットちゃんとかありましたよね。
そういう案ですよね。なんというか、せっかく本人がいるのに、今のような情報を絞ったような語り聞かせる伝え方はやはり情報量が少ないなと今おもいました。そういった活動が完全に無意味ではないと思うんですが、戦争肯定派や無関心な人が存在している時点で、
もっと生々しくしていかないといけないと思うんですよね。他にもやりようはあると思うんですよ。
なんというか、知らないということがアホなことになるんだから、強制的に知らせるべきなんですよね。そういう義務が合ってもいいでしょ。それが別にでかすぎる負担になるわけじゃないし。
例えば「痛みは実際受けないとわからない」といいますが、教育のために痛みを教えますって言って実際むち打ちをするみたいなことはヤバいわけですよね。
それをすると怪我をする可能性があるからよくないですけど、私が今行った方法ならば、いい経験になるし、怪我をせずに安全に知るということができるんじゃないですか?
クソダフミオ元裸の王様も、被災地に言って1時間も立たずに帰還()っていうことをしていたわけですし、なんか実際見るのとお花畑な脳みそ内のシミュレート()とはぜんぜん違ったんでしょうね
空気が違うと思うんですよね。自分が何を犯してしまったのか。
空気を知るべき。知る義務。
それがわからないから「歯を食いしばれ」とか「血を流す覚悟」とか「老人は切腹」とか、「大日本帝国バンザイ!(スーツ着たいい大人)」とか気楽に言えるんですよ。
インフルエンサーや政治家が、そういった他人を犠牲にするようなことを言うなら、身を持って経験してから言え。
身を持って経験したら言えなくなるから。
というわけで来年もれいわ新選組をよろしくお願いします。
れいわ推しときゃ問題なし(ありすぱ格言)