命の重さ、軽さ、「悪いやつは殺して良い」という死刑制度と、山上容疑者の首相暗殺事件

命は大切であり、一人ひとり大切な命を持っている。そしてそれらは平等だ。

 

「命は平等だ!」「粗末にして良い生命なんかない!」とか、よくアニメや漫画で言ってるし、普通の一般倫理的にもそういう考え方だろう。

 

確かに地位によって命の重さは変わるべきではない。

役人や権力者上級国民の命が重くて、貧乏人の命が軽いなんてのは、正義とは程遠い考え方であり、江戸時代や中世以前の時代錯誤の考え方である。

 

他にも、その人の環境だったり才能だったり運だったり年収だったり権力だったり親だったり学歴だったり能力だったり、

そういったものによって命の重さが変わるなんてことはないはずである。

 

だが、唯一命の重さが変わるとしたら

「どれだけ他人の命を助けたか、あるいは粗末にしたか」

によるものなのではないだろうか。

 

例えば人をたくさん助けた人間は、その分命の重さが助けた分プラスに成るはずだし、

 

あるいは犯罪行為をして他人の人生の自由を失わせ、または殺した人間はその分マイナスの命の重さに成るはずである。

 

 

仮に、基本的な命の重さが一定だとして、

その一人あたりの生命の重さを1と定義すると、

 

10人助けた医者とか警察官とかは、11人分の命の重さに成るはずだし、

 

3人殺した連続殺人犯、及びブラック企業社長は、-2の命の重さに成るはずである。

 

 

そして、その犯罪者を逮捕して監禁したり死刑にしたりすることは、マイナスをマイナスしてプラスにする。ということだと私は思っております。

 

だからこそ法律で犯罪者の自由を奪うことが合法となっている。

 

人権だなんだと言いつつ、犯罪者の人権を侵害できる理由がここにあるのだと思うのですね。

 

別の言い方をすると犯罪者の人権を尊重し、野放しにすると、他の一般人の人の人権を侵害することになる、ということです。

 

(まあたまにそういうことが起きているみたいですけどね。例えば性犯罪者は再犯率が高いのに罰が軽い、とか。)

 

まあ、間違ってそうなってしまったとか、意図的に他人の命や自由を奪ってないならば、情状酌量的な感じになるわけですけどね。

 

だから殺意の有無が争点になるとか、よく言われるわけですよ。

 

そして、精神病の人が無罪になるという理由にもなるわけです(まあ遺族の人は溜まったものじゃないですけどね)

 

 

こう考えると、不正をして何百何万人分の自由を奪い、それを代償に私服を肥やした売国奴政治家老人は、どれだけの命の軽さに成るのだろうか。

 

本来民のために仕事をするべき人間が、その重圧や役割を放棄し、多くの人々に迷惑をかけました。

 

政治家とは特殊な職業と言っていいと思います。

権力が集中しており、その一つの悪意が、とんでもない量の自由を人々から奪うことができるのです。一つの判断ミスも本来許されるべきではないのです。

 

そんな重要な役職の人が、重大なミスやすっとぼけをした場合、犯罪者と同じ扱いをしても良いとさえ思います。

 

それだけの覚悟が、本来は必要なはずです。

そんなことをした人の命は、どれだけ価値がマイナスになっているのだろう?

 

もちろん法律的には、何の罪にも問えません。

 

ですがそれは根本的な正義とは無関係のはずです。

法律は正義とイコールではないのではないのですからね。

 

多くの人に迷惑をかけた老い先短い人間、そういう政治家が殺されたとて、私は悲しまないし、むしろ喜びます。

 

あの事件は、マイナスをマイナスし、莫大なプラスとなったのです。

 

 

 

 

 

 

こういうと、「うわぁ…」って思うかもしれませんし、自分もまあそうです。

 

できれば皆、生きてほしい。

 

でも、殺さないと行けない人間もいるんですよね。

人権を無視して一生監禁したり、首吊りを皆で見守らないといけない人間もいるわけですよ。

 

日本に死刑制度があるっていうのは、そういうことなんじゃないですか?

 

 

もちろん山上の首相暗殺事件は法律的にはアウトなわけですが、

 

それが受け入れられている部分もあるっていうのは、そういうことなんじゃないかと。

 

逆に、死刑というものを肯定するのならば、そういう問題も考えないといけないよな。

 

法律的にアウトではあるが、死刑という制度の根本的正義性というか、

 

死刑というのは、言ってみれば「限度を超えて悪いやつは、殺してもいい」という根本的な正義から生み出された制度なわけじゃないですか。

 

「限度を超えて悪いやつは、殺してもいい」、そういった根本的正義は、許されて然るべきなのか、という。

 

それを肯定するのならば、あの暗殺事件は、法律ではアウトだが、正義的にはOKということになりますよね?

 

マイナスをマイナスにしプラスにしたという行為を、法律に則って行うか、そうでないかの違いでしか無いわけですよね。

 

いわば人助けに免許があったかなかったかの違いでしかない。

 

言い換えるならばブラックジャックは悪か善か」という問題。

ブラックジャックは免許がないから法律的には違法であり悪だが、正義的には善。

ブラックジャックに対して「彼は悪人だ!」って言っている人はあまりいませんよね?

 

死刑を肯定しつつ、かつ例の暗殺事件を否定するというのは、そういう矛盾がある。

 

もちろん法律的な側面では全く矛盾していないが、根本的な正義的な問題では矛盾がある。

 

限度を超えて悪いやつは殺していい!」

その根本的正義を、制度で表現したのが「死刑」というものである。

 

だがこう聞くと、「それは行き過ぎた正義なのではないか」と、部外者は感じてしまう。

まあ仕方ないだろう。部外者って何でもいえるから。

 

北海道でクマが射殺されたり、ヤク中を警察官が射殺したとか聞いても「いや麻酔で眠らせるとかあるだろ!」とか言っちゃうタイプだから。

 

 

でも、それを言う資格があるのは、犯罪者に殺された人の遺族だけだろ。

自分の家族が犯罪者に殺されて、それでも相手がのうのうと塀の中で生き続けるのって、地獄だと思うんだよね。

 

死刑制度に反対するというのならば、死刑によって救われた遺族の人に話を聞く必要があると思うんだよな。

 

それにもし死刑制度がなければ、犯罪者は檻の中でふんぞり返って反省しないと思う。

 

死刑があるから、凶悪犯罪者は反省できる

首を吊るされる前に今まで一度も信仰したことのない神に祈って反省することができる。自分が弱い立場に立ってみて初めて泣いて許しを請うことができるんですよね。

 

だから死刑というものは、必要な側面もある

 

 

 

 

 

 

 

そしてそれを前提に、例の暗殺事件のことを考えると、どうだろうか?

 

かの売国老人は、生き残るほうが良かったのか死ぬほうが良かったのか。