優秀なのか愚鈍なのかは時代や場所によっても変わるものだ

 

なろう系でよくある展開として、元の世界で常識だったものをその世界の住人に見せると「おおっこれはすごい!」みたいに過剰に評価される、みたいな事がよくあると思う。

 

それはなんか「いや周囲を頭悪くしてるだけじゃん」「なんで既にそういう技術が開発されてないんだ普通気がつくだろ」と批判されがちだが、

 

しかし割りとそういうところあるよなって。リアルでも。

 

 

テスラとかの電気とか電波とかの開発って、絶え間ない検証とか実験があって成り立つものだろうが、逆に言えばそういう環境さえあれば「誰でも気がつく」ものなんじゃなかろうか。

 

ゲームオタク的な人ならわかるけど、ゲームとかってシンプルなようなゲーム性に見えても、無数の戦法なりが存在するわけですよね。隠し要素とかも発売当日に発見される勢いなわけですよ。

 

だから今では「誰でも知ってるよ」的な定石的な知識になりがちでけど、割りとそれってすごいことなんじゃないかと思うんですよね。

 

でもそれは現代が異常というか、優秀すぎるなだけで、その当時はそういうことしてこなかったわけですよね。

 

何か実験をしようとするものならキ○〇〇教とかの宗教で弾圧されるし、そもそもそういった事ができる人は限られていたわけですよ。

 

あと当時の常識とかに影響されて、すぐ解決できる問題がズルズルと先延ばしにされてきたわけです。

瀉血とかがいい例だよね。

瀉血は当時の医療技術で具合の悪い人の血を抜くという明らかにおかしい医療行為だが、実は何百年も続いていて、ほんの100年前ぐらいつい最近まで行われていたらしいということを解説動画で聞いた。

 

 

なんか現実は物語より奇怪なりという言葉通り、なんか物語として解説すると陳腐に見えるが、現実はそれを大真面目に何百年もやってきたという歴史があるわけですよね。本当に脳みそ詰まってんのかってくらい愚かだよな。

 

 

 

 

まあ、つまり俺が何を言いたいのかというと、

「優秀さというのは当時の環境によって変わる」ということだよね。

 

現代はインフレしてるから、多少の努力で成功者になれる確率が減ったわけだけど、昔は多少の努力(と言ってもかなり重要な努力)で成功する確率が高かったわけじゃん。

 

同じリソースを使っても、ブルーオーシャンレッドオーシャンでは、そのリターンが違うわけですよね。

 

他にも、現代の価値観でいうところの天才、例えば何桁の計算を一瞬でできるとか、一瞬で本を丸ごと暗記できるとか、そういった能力を持つ人間も、未来では凡才とされているかもしれないじゃないですか。

 

そういった能力を効率的に身につけることができる効率的な学習法みたいなことができるようになったら、「そんなことができても何もすごくないよ」みたいになるかもしれないわけですよね。

 

 

 

なんかそれって、すごい、嫌だよなというか。

結局のところ天才だの愚鈍だの、失敗だの成功だのは、環境による物が大きいわけですよね。そういった意味でも。

 

そう考えると、他人の評価っていうのは、真に受けないほうが良いというか、なんというか真実じゃないよなって。

 

他人の評価が高ければその分お金も稼げるし、生活が楽になるわけだけども、そういった俗世的な良さはああるけど、なんというか真理ではないよなというか。真実ではないというか、俺の理想的に、真に納得できる結果ではないというか。

 

 

俺の理想とは、つまるところ今行ったような「相対的な評価」ではなく「絶対的な評価」なものを大事にしたいわけですよね。

 

つまり、「周囲が100できてるからお前も100できないと0点」ではなく、「周囲が100出来ようが関係ない、俺が100できたから100点」って言いたいわけですよね。

 

だって他人がどれだけ出来ようが、俺には関係ないじゃんって思うわけですよ。

 

他人が100できるのと、自分が100できるのは全然違うわけじゃないですか。

 

例えば、ある技術を100だけマスターすることで自分の世界が変化するわけだからね

それと同じように10出来ようが0・1だろうが、自分ができるのならそれは絶対的なものであり、周囲と比べてマイナス100だから良くない、とはならないわけですよね。

 

 

なんかこういう感覚、文章にするとなんか難しいな。

 

まあつまり、自分は世界を信頼していないというか、世界より自分というか、

自分が絶対的な自分の人生の権力者になりたいんでしょうね。誰しもそうでしょう?