なんかスイスとかで、3dプリンタで作られた安楽死装置が前に話題になりましたよね。
なんか安楽死といっても、病気や怪我でつらいからとかではなくて、自発的に自殺したいと思ってるからするみたいな、そういうタイプのやつ。
あれ使うにはなんか事前になんかチェックみたいなのがあるって言ってましたよね
なんか精神科医的なやつ。
俺は正直自殺に対して、しょうがないんじゃないかという思いがあった。
本人の石が硬いなら、もう止めることはできないんじゃないかみたいな。
ただまあ人前で自殺するのは止めて欲しいからなんじゃないかとも思いますけども。
つまり良く言われてる「お前は死にたいんじゃなくて注目されたいだけなんだー!!」的なね。
それをこの記事では仮に「自殺演技」と呼ぶ。
でもその自殺演技を含め、正直ね、それ含めて、自殺っていうその現象自体は、「ある」ってことは必要なんじゃないかなと。
本気で死にたいから、計画を立てて誰にも見つからずに死ぬっていうのは、まあ止めようが無い。
だが、自殺演技のように、本当は死にたくないけど、死ぬために屋上から注目を集めつつ飛び降りる、とかね。誰かに止めてほしくてみたいな、そういうのは「必要」なんじゃないかなと。
なんか、そういう行動によって救われることもあるんじゃないかなって。
むしろ我慢して我慢して、それで病気になって死ぬっていう、そういうパターンもあるわけじゃん。
つまり、俺が肯定したいのは、「自分の意志で死ぬ」という、その現象ではなくて、
「自分でこの世界の嫌なところを否定する」「自身のワガママを優先して嫌なことから逃げる」、ということ自体、
それ自体が尊いと思うのです。
だからこそ自殺は必要なんじゃないかと。
ただ勘違いしてほしくないのは、必要だからといって、俺は肯定しているわけじゃない。
例えばさあ、これは医療と同じなんだよね。
例えば骨折とか怪我をしたりして、幹部を塗ったり消毒したりするとか、病気になって薬を飲むっていうのは、「必要」じゃん。
でも俺は別に怪我や病気を「肯定しているわけじゃない」。最初から怪我や病気にならなければ、その治療は必要ないわけでしょ?
それと同じなんじゃないかな自殺って。
本来なら、人々が幸せに生きているならば、最初から自殺は必要ないんだよ。
なんかね、こう、鬱になったりとか、行きている意味が分からないだとか、そういうふうに追い詰められるっていう、それを食い止めるべきなんだよね本来。それを政治とか組織がやるべき。ちゃんと。
間違ってもデフレに緊縮を重ねて、人々を不幸においやって、昭和のスタンスで「苦しむほど強くなる!」みたいなヒトラー大好きな弱いものイジメ主義をしてはいけないんだよ。
でも、それをしちゃったから、「自殺」が「必要」になった。
そういうことを、安楽死装置に思ってしまったわけですわな。
いやさあ、そうやってチェック恩貯めに精神科医が仕事するくらいなら、最初から死ぬためじゃなくて生きるために仕事すればいいじゃんみたいな。
追い詰められて自殺させるくらいならば、追い詰めなければ良い。それだけの話し。
精神科医に「あなたは自殺がしたいですか?」みたいな確認を取るくらいなら、最初からそういう苦しい人に対して精神科医とかがケアできる仕組みなり財政なりになってないと行けないわけですよ。
最初からね、そういう装置を作るくらいならば、みたいな。
なんかさあ、俺は前まで自殺肯定派よりだったんですがね。なんか本人がやるっていうなら止めることはないんじゃねと思ってたんだが、今は自殺否定派寄りだわ。
なぜならば、まだヤり尽くしてないと思うんすよね。選択を選び尽くしてない
袋小路になったら自殺もやむなしと思うけども、もしなんか希望があるならそれを選んで進んでいくべきなんじゃねーか?
そう思ったのは、アレですよね。汚い大人を否定したいからなんだろうな。
緊縮で日本を衰退させた売国奴共を、腐ってどろどろに癒着した政治を否定したいからなんだろうね。
そういう老人、大人たちが、自殺に追い込んだ、それが許せない。
前まで俺は「自殺否定者たちに対する嫌悪感」によって自殺を肯定していたところもある。
「生きていれば良いこと有る!」「親や先祖に申し訳ないのか!」「自殺したらジゴクイキ!!」みたいな、
そういう凡百の意見を否定するために自殺肯定していたわけだし、今でもそういう気持ちは強いが。
そういう凡俗共とは到底比べ物にならないくらいの腐った世界を知っているからこそ、なんだろうね。
というわけでれいわ新選組を応援しろって、そういうことだよ。
れいわ新選組しか腐った病巣を駆逐するワクチンたり得ないんだよ。