なんか、アレですね。
技術的特異点ってかっこいい言葉ありますよね。
例えばAIが自分でプログラミングできれば、AIがAIを作り、さらにそのAIが~というふうに無限に増殖できるからみたいな。そういう爆発的に知性がアップしてすごいことになる、みたいな。大変なことになっちゃったぞみたいな。
そういう言葉がありますけど、tyっとこの言葉に対して、思ったんですけど
そういう考えって、もうできるんじゃね?っていうかね。
そんなわざわざ機械にやってもらわなくてもね。人間がやればいいじゃんみたいなね。
つまり育成、教育、学問、文化の発展ですよ。
教育をもっと極めて行かないといけないというかね。
人に教える、どういうことがわかりやすいのか、覚えやすいのか、どこでつまづきやすいのか。どうすれば楽しんでもらえるのか、制度も買えないといけない
そういうところを真剣に、徹底的にやってませんよね。今の世界って。社会ってさ。
そこ、真剣にいけば、多分一瞬で何万年もの科学力を、たった数十年で歓声できると思うんですよね。
だってさ、今世界で活躍している科学者が、例えば仮に1万人だとしたら、これを10倍に増やせるとか、100倍に増やせるとか、そうすればその分加速するでしょ。
そういうことでしょ?教育って。そういうことを目的に教育ってあるんでしたよね。
そんなね、AIがAIをプログラミングっていうね、それはできるとしても、何もそこまで行かなくても今ある材料だけで同じことができるじゃんみたいなね。
例えばそのAIがAIをプログラミングっていう、その超技術を、あと50年、最速で20年で完成できるとして、
俺が今行った教育に重点を置く方法は、本気を出せばそういう体制にするまで1年もかからないじゃないですか。さらにAI以外の、それ以外の技術も加速していくと思うんですよね。AI関連以外にもすごい余裕が生まれて、多くの人を救えると思うんですよ。
それで、思ったんですがね。
なぜ教育が今まで蔑ろにされてきたのか。って思ったんですが。
多分みんな、他人を出し抜こうとしてるからだと思うんですよね。
自分が一番になりたいじゃん。
なんかさ、ノーベル賞とか、そういうやつあるじゃん。科学者とか、そういう人っていうのは、やっぱり自分が賞を取りたいでしょ?
多分基本理念として、人間として、仕方のないことではあるが、自分の成果を他人に分け与えよう、共有しようってなりませんよね。まあそこはしゃーないところはあるのかもしれないな。
でもさあ、無視することはできんだろって。
なんか、人工知能とか、そういうのをわざわざ作らんでも、教育っていうすごい簡単なことで、同じようなことができるんだよな。
人工知能とかの技術的特異点っていうのは、ドンドン全体的に知能指数とか科学力が加速的になっていくことでしょ?
生み出さなくても希望者とかとかから、そういう科学者になる人を排出していけば良い。それが教育でしょ。
今で言う教育って、実質的に従順かそうでないかを振り分けるひよこの雄雌選別作業になってるのが、キモいなって。
結局今の学校っていうのは、実質的独裁国家ニッポンを作り上げるためのパーツでしかない。
でも本来教育って一人ひとりの価値を揚げるためのものだろ?
バカ売国奴がトップに立つ独裁国家ニッポンを作るためのものじゃないじゃん教育って。
そして、スキルを獲得した分、そいつの価値を揚げることができるというか、その分そいつを救えるし、そうい研究者っていう負担の大きい仕事を分散できるわけじゃん。
何をしているんだ?大人共。老人共。