「仲間と一緒ならこの先が地獄でも!」 を悪い方に実践してるのがカルト宗教だよな

私は中二病である。

 

と言ってもアレだね。よく創作である、邪気眼がとか、眼帯とか、そういうわかりやすいやつではなく、アレである。魔法とか超能力を本気で使いたい、支配したいと思っているのである。

 

だから別に邪気眼とかではない。いや使えるなら邪気眼でもいいのかもしれないが、ともかくそういうことである。能力モノが現実でできればいいなみたいな。

 

そういうノリで生きてきたし、今も隙あらばそうならないかなと。

 

ただまあ、しかし。その能力で逆に自分が不幸になったら元も子もないではあるから、そこらへんは慎重に行クべきと思うわけだがね。

 

例えばファンタジー物で、なんか無詠唱みたいなやつがあるでしょ?

 

アレって割りと危険なんじゃないかと思ってるんですよ。だって逆に言うなら詠唱をしなければ魔法はでないってことじゃないですか 安全弁的な役割だと思うんですよね。

 

チート無詠唱は、詠唱をしなくてもでるということは、例えば寝てる時とか、ぼーっとしてる時に出してしまうかもしれないという心配が常にあるわけですよ。

 

俺は最初からそこまで求めてないというかね。

 

弱い力であったとしても使いようによっては最強になれるかもしれないというか、そういうのが一番ワクワクするし、強くするためにはそういう弱い力を育てていくことが地道にやっていくことが大事なんだろうなと。

 

なんかストファイのリュウも言ってたじゃん。少しずつ強くなるのがええんや…みたいなことをさ。

 

なんかさ、天才じゃなくても何十年もやってればワンちゃんあるんじゃね?みたいな。もっとこう、劇的に強くなるとかじゃなくて、もっと下地というか下積みを経た上でのみたいな。その方が安全でしょ。ビビリなんで。

 

まあとにかく、私は現実的にそういう能力者というか、ないかもしれないけどワンチャン…とか、そういうタイプの中二病なわけですよね。

 

まあでも今でこそそういうふうに確立しているわけだが、昔はそうではなく、

 

オカルトに系統していたわけですよね。まあ見境なくというわけではないが、自分的に好みな感じの書籍を読み漁っていたわけです。仙術とか。

正直勉強とかあまり頑張らずに、俺の青春はこっちだったと思うんですよね。

 

だがある時、思ったんですよね。全然俺の努力は実を結んでいないなと。

 

これがもし、例えばこう、1ミリくらいものを浮かせられるとか、あるいは身体能力が向上したことを実感するだとか、そういうことができればもう、全てを捨ててでもそれを鍛えたいと思っただろう。

 

だがしかし、その自分の努力の成果は、ゼロとは言わないが、効果はもしかしてあるのかもしれない。だがそれがとても分かりづらいのである。

 

実感として、全然何も成し遂げてない気がするのである。

 

だがしかしだからといってやめるというのもどうなんだろうという気になっているのだ。

 

ここで撤退したらもう終わりじゃん。

 

アイデンティティを捨てるわけでしょ?それは死ぬのと同じでしょ。

 

 

ジレンマ、どっち言っても地獄みたいな。

 

でもまあ、そういう葛藤があったのですけどね。

 

なんというか、その、自分が進むべき道だと思ってたが、その道がぐにゃあと。本当に信頼できるのかと。もしかしたら時間を無駄にするだけで何も得ることはないのではないか。

 

この感覚。

 

だからこういう経緯を経て、やはり現実的な範囲の極め方をするほうがいいんじゃないかと思ったんですよね。そういう結論。

 

だが、その結論に至るまで、そういうアレがあったんですわ。

 

 

 

そして、宗教にハマる人って、こういうふうにはならないよなって思ってんですよね。

 

俺みたいに一人でやるっていうやつは、自分が救われたくてやってることだけど。

 

宗教の場合は他に信者がいる、なかまがいるよ!!っていうのが悪く作用しているよな。

 

俺みたいに「この道で本当に合ってる?」っていう思考があまり働かない。見てるとそう感じるし、その原因は寂しさなんだろうなと。

 

そういう「理性」よりも人とふれあいたい会話したいみたいな「本能」が勝ってるんですわ。

 

それは多分セックスとかオナニーとか食欲とか、そういうやつに抗えないというレベルのやつだと思うんですよね。そういうレベルの本能的なものだと思うんですよ。

 

人間って寂しがり屋だけど、逆に言うなら人と一緒にいるならそれで何を成し遂げなくても満足してしまう生き物なんで、

 

その進む先の道が奈落であったとしても、仲間と一緒なら平気みたいな、そういう深層心理みたいな。

間違ったことを仲間といるならずっと続けるみたいな。地獄であってもどんなにつらくても仲間がいれば大丈夫みたいな。

 

俺の場合、それがなかったのが良かったのかもしれない。俺のほうが精神的にはきついかもしれないが、なんかね、人と一緒に行動する生活するっていうのは、案外救われるところがあると思う。だから人は家族を作りたがるんだろうな。

 

なんかもう、俺の場合一人で行動するのが当たり前になって、精神的な側面ではそこそこデメリットを享受できるようになってるから、それはそれでいいと思うけどね。

 

でもおそらく普通の人には耐えられないことなんだろうなってのは、今までの経験としてわかる。

 

なんかもうね、カルトってメリットないのになぜ集まってるのかというと、結局のところ、寂しいからなんだろうなと。

 

まあ、それは別にカルトじゃなくても全員同じだが。

 

こういうことって良くも悪くもよくあることだけどもね。カルト宗教に限らずさあ。

 

コンコルドの誤り的な感じで、ダメだと気がついても方向転換できないというか、失敗してきた会社って星の数ほどいる。

 

会社っていうのも集団だからさあ、そういうね、社員はともかく、その意思決定をする社長とか幹部とか、

 

そういうやつらって、なまじ人と触れ合ってるせいで、俺みたいに心が乾いてない、満たされているからこそ、失敗する道に進んでも平気でしょみたいな正常性バイアスが働いてるよな。

 

なんか、社長は孤独、とかトップは孤独、みたいな言葉はそういう意味も含まれてるのかな。

 

 

 

政治もそれと同じ。

 

国会で和の心で日本自体を奈落に落とそうとしても「平気でしょ」みたいな正常性バイアスが働くみたいなね。

 

つまりれいわ新選組を広めるしか無い