自由というのは呪い的な風潮

『KISS 狂人、空を飛ぶ』 という漫画を見ました。

 

いやすごすぎ。なんか漫画の枠組みを超えてる感というか、演出というか表現方法がすごいし、

主人公の感覚というかね、なんかこういう原始的なものだよね人ってって思うんですよ。なんか周囲の人はすごい大人なわけですけどね。でもお前えら大人だって赤ちゃんじゃんだって。もっとそういう、自然回帰的にイキてえなあと。

 

同じく神作の「大日本天狗党絵詞」っていう漫画を見た時にそういうふうに自由に生きる天狗たちのように生きてええなあと、そういうものに通じるような。そういう何かというか。

 

テーマ的にも読み進めていくとああそういうことねってなってくる展開になってくるわけなんだけども

 

つまるところ「自由であることを押さえつける社会ってのがあるんですよ~」っていう。

 

なんかこれ、わかるなーと思うわけですよね。なんか学校とかそういうところじゃんもう。なんかこうね、ずっと思ってたんですけど、

 

だって、学校っていうものの存在意義って、人々に学を付けさせるということなんでしょ?大人だってその目的のために仕事してるんでしょ?

 

ならばそのテーマに向かって効率的なやり方があるわけですけどさあ、でもその逆のことをしているように思える。例えばずっと机に座りっぱなしとか学習効率落ちるし、先生の話を聞くだけとかそれで意欲が湧くんだろうかね?と。やる気のある先生とかならいいんだろうけどもっと

もっと研究していかないといけないわけなのに、なんで昔のやり方に固執するんだろうと。

例えば海外の教育方法とか失敗例とかあるけど、よく新しいやり方に対して「ああ、それはダメだったわ」ってなるのはわかる。でもじゃあ「古いやり方が絶対安全安心」っていうのもちがくないですか?可能性の一つを試して、ダメだって試すことを諦めたら進歩なんてありませんよ?

 

だからなんというか、学校というものに対して宗教的な物を感じていたわけですよね。なんかもう自分だけでやらせてください、自分がやりたい、試してダメだってやりたいと。そう思っていたわけで。

 

 

まあそれは置いといて、「自由」について俺は考えているわけなんですけども。

 

「自由っていうのは責任が伴う」とか、「自由とは呪いである」的なそういう風潮があるわけじゃないですか。

日本人特有の鎖を自慢する的なそういう観念。まあ日本人は基本的に優れているわけだけど、国民的にマゾであり、かつメスなので、仕方ないわけなんだけど、まあ俺もそういう成分がないわけでもないですし。

 

でもそれとは別の意味で、自由を突き詰めると自由っていうのは無いのかもしれないと思うわけです。

 

今いったのは結局、「不安だよぉ~!」っていうことなんですよね。その気持が核なんですよ。

人々が自由を否定する時、そこには「誰か保証して欲しい」っていう。安心を求めるがゆえに自由を忌避するわけですけど。

 

ですけども、実際のところそういう他者に依存して、集団に依存したところで、イコール保証されているわけでもないじゃないですか。まあされてることもありますけど

 

実際のところどれだけ理不尽があるっていう話ですよね。不況とか倒産とか氷河期とか。テレビが正しいと思ってたら全然違うこと言ってたわけでしょ。悪人に依存してたらバカを見るわけですよね。

 

まあでも依存すること自体が悪いわけじゃないけどな。すごい立派な人とか面倒見のいい人とかに依存というかwinwin的な関係に慣れたらそれは素晴らしいと思うわけですけども。

 

とにかく「自由はいけないことだ」っていうその人々がいうその言葉には、そういう裏が隠れているわけですよね。皆得したいだけなんですわ。

 

そのために「試行錯誤」という意味での「自由」が必要だと思うわけですよね。自分が一番強い場所を見つけることが大事なわけです。合理性なんですよ。合理性を突き詰めると一つに行き着くのではないかというのが俺の持論なわけです。

 

俺が言いたいのは、そういう意味での「自由で無さ」なんですよね。

 

つまるところ、人一人一人に(あるいは社会全体にも)絶対的な正義というものがあるわけですよね。絶対的な正解があると思うわけです。それに気がついていないだけです。それを見つけて実行し続けることこそが、正しさなんですわ。

 

一番重要なのが進路ですよね。もっと自分の性格とか、自分の特異なこととかっていうのは人それぞれ違うわけですけど、そのもっともあっている物を探す絶対的な正解というものがあると思うわけでうs。

 

とある登山家のインタビューでなぜ山に登るのかと聞かれてそこに山があるからだ的な。その答えっていうのは「適当に答えとこう」みたいな感じみたいらしいが、まあでも一つの心理であると思える。「この人は山を登る以外に選択肢がなかったのだ」という。

 

あとサクラダリセットっていう神アニメで「すべての可能性を全て机に出して”いい箱””ダメな箱”に分けていく、そして全てを”ダメな箱”に入れたあと、全て取り出して選んだのが一番良い選択」みたいなことを言ってたけど、それも同じことですよね。全て試しましょうということですわ。

 

でも、天才はそんなことしなくても、その正解を最初から知っているわけです。だから勝つ。そしてそれは皆できることなんじゃないですか?皆。でもカッコつけて我慢している。それで損する。だから自分は人が苦手なんでしょうね合わせてしまうので。

 

例えば第六感だとか、直感だとか、そうじゃなくても夜になって眠いから寝るだったり、腹が減ったから食うだったり、そういう本能的なものに従って行動しているからこそ、迷いがないわけです。

 

「狂人空を飛ぶ」でも主人公がそういうところがあって、そういうところにリアリティを感じる。

なんか昔の話に、ある僧侶が「川の向こう側に行きたいところがあるんだけど船がねえな」って思って、ずっと対岸の方を見ていたら、それを見ていた別の人が「じゃあ行く?」みたいに言ってくれた、みたいな話があるわけですけど、その人は欲だけで行動していたから対岸に渡れたわけですよね。

そういう純粋さ、大事にしていきたいというか、この先そういうやつしか勝てないと思うんですよね。賢いやつは余るほどいるので。いや、でも、そういう言い分は競争原理的で嫌だなあ。別に一番じゃなくてもいいだろ。面白ければいいだろ。っていうか勝ち負けにこだわってる時点で負けてる気がする。自分が全く普通なんだけど特に周囲と比べて謙遜なしに賢くも頭悪くもなかったんだけど神童みたいな扱いを受けていた頃は、なんか負け惜しみみたいなことを特定の人が勝手に行っていたような記憶がある。そして余裕がなくなってから高慢になっていった感があるわ。

 

だから自分は戦いたくないんだなと。競争したくない。そして矛盾しているようだが負けたくないし勝ちたい。つまり納得なんだよな。納得すれば勝ちだし、しなければ負けというゲーム。納得は全てに優先するぜ!

正しいことをし続けるということこそが、高みに登るための方法であり、健康にも大事なんだよ。

間違いをし続けることのほうが苦しいし、間違ったことをして何十年も生きてきた人はもうこれからも間違い続けるだろうし、救えねえなと。まあ「自己責任」ですよね本人たちが言ってるように。無意識に自分たちは例外だと思ってるんだろうけど、んなわけねーからw「自己責任」言ってるやつが一番自己責任が適用されるんすよね。まあ何を言いたいかは分かりますよね。正しいやつが勝ち、間違ってるやつが負ける。「勝ったやつが正義負けたやつが悪」みたいなことを言うつもりはない。れいわが勝つってことですよコーラを飲んだらゲップが出るくらい当然の(略