雨が振りそうなとき、いつも傘を持つか持たないか、迷っていた。
いちいちリュックを使うのもめんどいし、手に持って行くのもなんだかめんどい。
雨がふらないことに賭け手ぶらで外出し雨が降ってもめんどうだ
そこで俺は、必ず傘を持っていくことにした。
前見た自己啓発本で「人生を効率化するために迷う時間を減らすことだ」的なことが書いてあった。つまり「こういうときこうする」というテンプレを作れば考えずに済むということだ。
そして、そうして、雨がふらなかったとき、
「あーあ、傘が無駄になったな」と思うだろうか?
思わない。
まあ、たかが傘一つである。べつに手に持っていってもそこまで気にならない。意外と気にならない。想像したよりも普通に気にならないのだ。
だが、玄関を出る前、直前に「雨がふらなかったら無駄だな…」と思っている。
なんというか、やっている最中よりも、やる前のほうが、その「めんどくささ」を感じるのである。経験があるのではないだろか。
やる前は宿題めんどくさいなと思っても、やってみると意外と筆が進んだり、やってみると意外と熱中したりする、
お風呂とかも入る前はめんどいが、入っている最中はそこまでめんどくさくない、と同じ原理だ。
勢いさえつければ案外楽なものなのである。
だが、だとしても、
やる前は心理的負担が高いことには変わりない。
そこで俺はこう思うことにした・
「傘をもてば、雨はふらない」
つまり、
「傘を持つことにより、その呪術的儀式により雨がふらなくなるのである」
傘を、何らかのアーティファクトだと思うことにしたのだ。
その力によって本来降るはずだった雨が振らなくなるのだと。
だから「傘を持つことは有意義なことなのだ」と、
そう思うことにしたのだ。
この考えをもってから数年。
結構この考えって、いい考えだなと自負している。
まあ傘もそうだが、別のジャンルでもこう考えれば良い、という状況があると思ったのだ。
例えば、ツイッターで今日こんな漫画を見た。
(自分はこういうママが書くような漫画が好きなのである。だって可愛いから)
この漫画で、
「いざという時に使う器具を、園長がかってくれない」
ということを言っていたのである。
AEDとか、その他、死人がでるくらい重大な状況に対応できる器具を、買ってないのである。
何故ならば「それが起こる確率は限りなく低い」からだ。
つまり「どうせ使うこともなく無駄になるんだから買わなくていいだろう。」「これも経費削減だ」と。
そういうことである。
だがもし俺が園長ならば、そうは思わない。
「その器具があることで、その状況が起こらなくなるのだ」
という、前述の傘と同じ考え方をするだろう。多分。
(まあ経営者になったらそういうケチる感覚は持つようになるんだろうし、俺もこの園長みたいにそうならない保証はないのだが、まあ重い腰を上げてでもそうする可能性は高いのではないだろうか)
まあ、そういった、呪術的考えでなくとも、なんかこう、ハインリッヒの法則的な考え方も俺の中にあるよね。
「どれだけ危険な状況になっても多くのものは失敗に終わるが、それを対策せず常習化するといずれ重大な危険が襲いかかってくる。」
ということだ。
ここでやらなかったら、次もやらない、
そしてずっとやらなくなり、いざという時に死ぬ。
みたいな。
つまり、その状況を回避するためには、「対策が無駄になること自体が良いことである」と考えるのが良いことである。。
そうならなくても対策すること自体に意味がある。という考え。
むしろ無駄になるために買う、1000回中、999回が無駄になるが、それを受け入れてこその対策。みたいな。
昨今の国同士の緊張だとかを見ても、戦力を整えること自体に意味がある。と感じる所存。
たとえそれを使わなくても、
「無駄になること自体が意味があることである」、
という思考がどれだけ大事かを考えさせられるわけですよね。
まあ無論、そのコストとリターンを考えることも大事であろうが。
生死に関わる部分は、低確率でもやるべきだろう。
こういう思考になるためには過去の失敗例を見るべきだ
調子乗って油断して死んだり生き地獄になったり、過失にせよ人を殺したりした事例なんていくらでもある。
特に会社経営、安全対策が十分に取られてなかったなんてことは、いくらでもある。
自分のせいで他人が死ぬというのは、想像以上に辛いものだろうと思う。しかもそれが金のためとか、一生罪を償って生きるか、狂うしか道はないのだ。
コロナとかも、もし以前のおれだったら、普通に外出してただろうし、感染していた可能性が高い。
そうしなかったのは、リアルの痛みや苦しみを知っていたからだろう。