ユーチューブとかで、たまに有名ユーチューバーの今までの経緯と言うか歴史というか、そういうのを見ることがあるのだが、
そこで思うのですが、それと比較して自分の人生って、割りと筋が通っているというか、割りと一貫したテーマがあるなと。
例えば、よくお絵かき講座を見るイラストレーターのさいとうなおきとかは、若い頃から絵を書くことに全力でありいまプロになれているらしい。
でも、そういう一貫したテーマがある人もいるけど、だいたいの人はそういうわけではなく、割りと行き当たりばったりというか、
入れる会社に入って、仕事しながら生活しつつ、そこからユーチューバーになった、みたいな。
90%以上の人はそういう、「収入がいいから入った」「入れたから入れた」みたいな
「好きなものはあるけどそれを仕事にできない」だとか、「好きなものは確かにあるけど仕事にするのはどうなのか」みたいな、そういう進路じゃないですか。
それに対して、自分は割りと、一貫したテーマがあるなと思ったんですよね。
でも、勘違いしてほしくないのは、だからといって自分は、何かを極めているわけではないというか。
さいとうなおきみたいに、その一貫したテーマと行動が、一致してなかったというか、
自分は確かに人生における「こうしたい!」っていうモノ自体はあったが、それを行動に示して実現することができなかったわけですよ。
何故ならば、自分の「こうしたい!」とは、
「ベストを尽くしたい」だとか
「長生きしたい」だとか、
「嫌なことをしたくない」だとか、
そういう抽象的だったり、実現するまで時間がかかるようなものだったわけですよね。
まず、最初から説明すると、
「ベストを尽くしたい」っていうて0あま
これはですね、昔「自分は凡人だ」と、なんか幼稚園とかそのくらいに直感したんですよね。
なんというか自分の中に、天才の感覚みたいなのがあって、その感覚と自分の間隔には大きな乖離があると思ったわけですよ
でも、凡人だろうが、ベストを尽くせば天才に勝てるじゃん?
だから、あらゆる物事に対してベスト、より良い選択、よりよい努力をしたいなと。
だが、まあそれは具体的なものではないというか
あらゆる物事に対してベストを尽くすというのは、つまり学業や生活や金策や、国語算数理科社会体育、趣味読書映画、時間節約効率化対人関係、あらゆることに対してベストを尽くさないといけないというわけで、
実現がほぼ不可能というか、自分で絞らないといけないわけじゃないですか。
でも何を捨てるか捨てないか。そういうことを具体的に決められずに生きてきた。
だから何も極めることができなかった。
二兎を追う者は一兎をも得ずという論理ですね。
まあそれが1つめ
そしてhつ集めは、「長生きしたい」
これもまあ、前行った、ひいおばあちゃんがなんか可愛そうだなと。
時間が経つだけで誰しもがああなってしまうというのは残酷だし、怖い。
でも健康に気を使ったところで、ある程度やればいいわけじゃないですか
それに、健康食品を買おうとすると、お金も余計に使うわけで。
あと感覚的に自分は健康かどうかなんて、具体的にどのくらいかなんてわからないじゃないですか。
まあビオフェルミンとか整腸剤はいいって聞いてたから飲んでるけどさあ。
なんか極めるというよりも、そんなに努力しなくてもいいものというか。
そして3つ目が「嫌なことをしたくない」
まあこれも前に言いましたが、人間って、その人がどういう人間か、ひと目見ただけでおおまかにはわかるじゃないですか。
特に、そいつが嫌なやつかいいやつか、言い換えるならばそいつがストレスを日々受けて過ごしているかそうでないかがわかる。
肌ツヤだとか表情とか動きとかで、そいつが受けているストレスみたいなのがわかる。
それが恐ろしいわけですよ。
だから俺は対人的な仕事ができない。
それに普通の仕事もできない。
今言ったストレスを受けている人というのは、仕事が原因でそうなったわけじゃないですか。
自分もああなるかもしれないと思うと、やはり嫌な仕事をするというリスクは相当デカいと思うんですよね。
するにしても、ユーチューバーとかそういう副業に舵を切れるようにしておきたいなと。ダラダラとやり続けるというのはなんというか、
まあ、ざっと説明してきたわけですけど、なんというか、人生のテーマって、こういうのもありだと思うけど、でも抽象的じゃん?
なんかさあ、イラストだったり小説だったり、音楽だったりプロゲーマーだったり、そういう具体的なテーマ的なのがあったほうが、わかりやすいじゃん。
「ストレスを少なくしたベストな生き方をして長生きする」っていうのは、それは何か数値化できるものじゃないじゃん。
それに、お金も稼げないしさあ。
なんか、これが根本的な自分の問題だよなぁ。
長い目で見ればこの俺のやり方でもいいのかもしれないけども。