他人のために自分を犠牲にすることについて

【ゆっくり文庫】菊池寛「恩讐の彼方に」 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

 

前ブログでも紹介したゆっくり文庫シリーズだが、それを見ていたらこういう話があった。

 

自分の親を殺した仇にやっと出会ったら、そいつは自分を犠牲にしてぼろぼろになりながらトンネルを掘っていたと言うやつだ。

 

きっとこいつにもナニカ事情があって殺したような感じがするが、しかし、まあ仇の部分は置いといて、実際にトンネル彫りというのはあった。

 

なんかそういう、自分を犠牲にして多くの人のために成ることをするっていう、そういうことについて、俺はなんというか、善ではあるんだろうが、あまり肯定したくない感情が芽生えたのである。

 

なんというか、自分を犠牲にして多くを助けるって、なんか美化されがちだけど、俺は美化したくないなというか、

 

余裕があるやつが余ったリソースでやればいいじゃんというか、人助けってそういう自分を切り詰めてやるようなものか?っという思いがあるわけですよね。

 

なんか気軽に、醤油を取る感覚で人助けできるなら、「良いな」って俺も思うけど、なんというか、身を切るような思いをして他人を助けても、なんか、それを肯定してしまったらなんだかなあというか。

 

もっとこう、そういうやらなければならないことがあるんなら、その労力を分散させて一人あたりの苦労を減らすべきなんじゃないかと思う。なんで少数に負わせるんだろうというかなんというか。

 

しかもそういう人って、善人だろ?

そういう人を殺して何が楽しいんだろうね。

もっと罪深いことをした罪人にやらせりゃいいのにさあ。

大概そうやって犠牲に成る人間は、平凡だったり善良だったりする人間なんだよなあ。

 

 

 

身の回りにはそうやって、少数の人間が苦労して作ってきた功績が転がっているわけですよね。

 

家とかビルとかの建築物とかも大工とかそれ関係の人が苦労して作ったようなものらしいし。建築業界はなんかブラックだって有名だからな。

 

それ以外にも車とかPCとか、あらゆるものがそういう犠牲によって成り立っているものじゃん。

 

そりゃニート増えるよなっていうね。

ニートってなんか悪みたいに思われがちだけども、俺にとっては自分を犠牲にする人のほうがよっぽど、心配になるよなぁ。