ゆ虐、良いよね。
俺ってゆ虐の何がすきかっていうと、サンドボックス的な空間じゃないですか。ゆ虐って。
ゆ虐っていうのは、ゆっくり虐待っていう、当方の「ゆっくりしていってね!」っていう書き込みから生まれたキャラクターを虐めて楽しむみたいなコンテンツなんだけど(もちろん二次だからな?勘違いしないでほしいけど)
まあそのことに「ひどい!」ってやつもいるだろうけど、それって悲しい系の話全部否定することになるんですけどいいですか?ってことになるけども。
まあともかくその善悪はともかくとして、サンドボックス的になっているのが好きなんだよね。
ゆ虐には3種類くらい派閥があって、
1つ目は単純に虐めるやつ
2つ目は生態を観察するやつ
3つ目は愛で。
正直3つ目はゆ虐じゃないだろって意見もあるけども。ゆ虐の世界感であえてゆっくりを愛でよう、可愛がろうという種類の作品なわけだが。
僕が特に好きなのが2つ目、時点で1つ目なんですよね。
2つ目の生態を観察するやつは、ゆっくりがもし現実の生き物だったら?という思考実験的な作品で、その生態を紹介するみたいな作品で
例えば俺が好きな作品に、ゆっくりが進化して水辺で生活できるようになった、みたいな作品があるわけですよね。
なんか海藻みたいに、口だけ水面にだして呼吸をして、細長い形になるみたいな
それで最後水に流されて全滅みたいな
くっそ面白いでしょwwww
そういう、なんかこう、ゆ虐空間とい、何をしても良いサンドボックス的な空間の中で、ゆっくりが進化していくっていうね。
あ、あと思い出したけど、ゆっくりが空が飛べるようになったやつも好き。アレ名作だわ。意外性とかも合わせてすごいワクワクするというか。アレは虐待苦手な人もみて欲しいわ。ほとんど愛での作品だし。
まあともかくね。ゆっくり虐待って、なんか「あいつら狂ってるよ」って思われがちだけども、なんだろうね、
本質的には、なんjとか淫夢とかクッキー★、なろう、に近いと思うんですよね。
つまり、「なんでもあり」(バーリトゥード)
なんかこう、倫理から外れたことをしても良いっていうね、そして欲望に忠実であって良い。
ゆ虐だって、何かを虐めるのは本来してはいけないことじゃん。
無論現実ではやってはいけないことだけども、創作の中でもやってはいけないのか?っていうと、別にそうじゃないじゃん。別にそれで被害者がいるわけないじゃん。作品の中で何を虐めるのは自由じゃん。(まあ誹謗中傷以外でね?)(あと原作者ZUN氏様の好意におんぶにだっこしている側面もあるけども)
でもその虐めたいという感情は、醜いものなわけですよ。だからそれを好きだと、公言したり、それをつくったりするのは、はばかられるわけです。
でもやる。
だって楽しいから。
そういうのって、大事だよね。
そう、「行動する」っていうのが、尊い。
何もせずに、頭の中で妄想だけしていても、何もならないからな。
まあ、それも結構楽しいけどさ
やっぱり作ること、行動することが、大事。
そして行動し続ける事が大事だと思うわけよ。
どんなにクソだったり、小さいことだとしても、続けることっていうのは力になるわけじゃん。
何故ならば、サンドボックス的というかなんというか、
創作空間における、予測不能さ、それが面白いから
持続する、ということさえできれば、自分の世界観というのがサンドボックス化するわけじゃん。
どういうことかというと
未来において「俺がどういう作品を作るか」は、俺にも予測ができないわけじゃん。
例えば、一回きり、小説なりイラストなりを書くのは、それは誰も予想がつくことじゃん。ただ下手なものを作っただけ。自分もそれを作りたかったかどうかも分からん。
でも、持続し続ける、継続することによって、話しが変わってくるわけですよ。
しょうもないものでも何十回何百回もかくうちに、自然と一定の形というか、定形(パターン)が出てくるわけですよね。
ゆ虐でたとえるならば、キャラ設定とか、世界観設定とか、お約束とか。
なろうで言うところのテンプレってやつですわ。
それは、最初は自分が予想してないことじゃん。作ろうと思って作ったわけではなく、自己探究の結果、そうなってしまった。必然か偶然かは知らんが。
そして、アイディアとかもひらめいてくるものじゃん。
アイディアとかも、それは降りてくるものじゃん。
それを作ろうと思って作ったわけじゃなくて
何度も作って、そういう創作空間を形成していくうちに、偶然その組み合わせを発見したみたいな。
そういう俺の精神の庭というべき場所において、何かが形成される、それを形にして出すということが、面白いなと。
サンドボックスの面白いところは、予測がつかないところだと思うんスよね。
そういう意味でAIのべりすととかチャットGDPみたいな、noitaやマイクラとか、そういう面白さと似ている気がする。
つまり行動ありきなわけよ。
大事なのは何を作るかではなく、作ることそれ自体だと俺は思うわけですよね。根幹的には。
そして、ここが重要なんですけども、
行動することを、重荷にしてはいけないなって思うわけよ。
なんかさあ、あるじゃん。DOIT!!って男がなんか叫ぶミームあるじゃん?
ああいうのじゃないわけよ。俺が思ってるのは。
なんかああいうのって、まるで「やる」ことが大変なことだというふうな感じじゃん。DOIT!!ってね、そういう、叫んで力んで、そうやって力強く押されて初めて行動するみたいあさあ。
でもさあ、違うんだよ。
俺が思うのは、そういう、重たい行動じゃなくて、鳥よりも羽よりも軽い行動、
もっと軽くて俗であって、ルールに厳格でなくて良いんだよね。
もっとこう、しょうもない動機とか、あるいは決心なんていらない、そういうなんというか、無責任であるべきなんだよな。行動とか努力とかっていうのは。
もしそれができないならば、もっとこう、量を減らすとかハードル下げるとかしたほうが良いと思う。
その上ならば、続けることはできるでしょ?
続ける、ということが可能になることによって、サンドボックス的というか、確実な進化が約束されているわけだからな。
どんなにしょうもなくても、数ヶ月、数年と重ねることで、その時にはどうなってるか今の段階ではわからないでしょ?それが面白い。
だからこそ、俺は新都社とかのくっそ下手な漫画とか、つまらない漫画とか、そういう下手なイラストとかをバカにすることができない
多分、絵がうまくて性格が悪いやつは「なにこれwww」とか思ってるんだろうけど、お前のその感情精神が、楽しさを奪っていると思うわ。
きっと、その漫画を書いているやつも「俺漫画下手だから書くのやめよ」って思ってるんだろうけども、そんな恥は忘れなさい。って言いたいね。もっと適当でいい。書くのが辛いならもっとぐしゃぐしゃってやってもいいと思う。それで胸を張るべきなんだよ。
もっとこう、珠玉混合の、石ころをバカにしてはいけないというか、それがあるからこそ金があるんだからな。
もっと気楽に、まるで呼吸を刷るように行動できるよになるほうがいい。
たとえその努力が無駄になったとしても結実しなかったとしても良いっていうくらい適当にやるほうが良いと思うんだよね。実際無駄になるかもしれないし。
うん、無駄になるかもしれない。だからそ楽しむべきなんだよ。だって結実することを目標にしたら疲れるじゃん。
まあ結実することを目標に頑張ること、それも体力や精神に余裕がある人は楽しいんだろうけどさ。
そしてまあ、色々と自分の才能と言うかフィットする分野を見つけることがっ大事
それはまあ漫画でも小説でもなんでも良いけども、努力っていうのは本来そういうものだと思う。少なくとも俺の理想はそう