日本語ってオタク気質なのかもしれない

「鬼」と「改心した鬼」は数え方が違う【助数詞1】#37 - YouTube

 

ゆる言語学ラジオっていう、おもしろチャンネルがあるんですが、

 

このその中の一つの動画で、モノの数え方についての話が合った。

 

ご存じのとおり、モノによって数え方が違うっていう話で、外国の人覚えるのきついだろうな~って言う話なんだけども、それを聞いて思ったんですよね

 

「いや別に覚える必要なくね?」と。

 

単位なんて、別にそんな明確に使えなくても、数字さえ言えば意味は伝わるだろうし。

 

全部完璧に覚えるにしても、そんなのは傍流みたいなもので、核となる文法とか単語みたいなのを優先的に覚えれば、そこらへんはおいおい覚えていけばいいだろうと

 

 

というか、そういう感覚で日本語、というか、言葉っていうのは作られて言ってるんじゃないかと。

 

つまり、「なんとなく」「感覚的」「抽象的」

 

言語って、そういうところあるよなって。

 

だれかが線を引いて設計してるわけじゃないじゃん。

 

なんというか、このチャンネルの他の動画で、「英語は、シンプルになろうとしている」みたいなことを言ってたんですよね。

 

一方日本語って逆で、何でも取り込んで複雑になっていこうとする感じがあるよなって。なんかイメージ的にすごいそういうイメージあるわ。

 

それで、なんで複雑になっていくのかというと、なんかこう、精神性にあるんじゃないかなと。

 

日本の精神とは具体的にいうならば、

 

「精神そのものを意識する」という、そういう傾向が強いんじゃないかと俺は勝手に思ってるんじゃないかなって。

 

つまり、「意味」「クオリア」とかが先にあって、

 

そしてそこから、具体的な「言葉」にしていくみたいな。

 

つまり、普段、精神の世界でモノを考えて、それを外に出すときに言葉にする、みたいな。

 

その精神をより正確に表現しようとする傾向がある気がするんですよね。

 

例えば、具体例をあげるとするならば「ヲタク」という単語がありますけど、

そのダサい感じというか、のっそりした感じが「ヲ、タ、ク」という音のイメージが、その意味するものと「一致」したからなんじゃないかなと。

 

つまり意味と表音が一致したから流行った。だから言葉になったのだと。

 

結果的に、名は体を表す的な感じになっているというか。

 

そう、「意味」「感覚」を重視するというか、

 

それって「文章」にも言えますよね。

 

例えば同じ文末を連続するのは避けろ、っみたいな。

「〇〇でした。〇〇でした」とか「〇〇です。〇〇です」みたいな文章は良くないというか、リズムとかそういうのが損なわれるからそういう書き方しないでくださいみたいな暗黙の了解になってるじゃん。

 

もし言語が、合理性しかないものだとしたら、そういう書き方はふつうだよね。プログラム言語みたいな、ルールに従ってさえいればどういう書き方をしてもいいですよ。って

 

でもそうじゃないじゃん。

 

他にも「冗長な部分は省く」とか、「句読点が多すぎる」とか、「リズム感」だとか、

そういうのは別に意味さえ把握できれば必要のない暗黙のルールですよね。

 

だって言語ってのは意味を伝えるためのものなんだから。その目的さえ果たしていればなんでも良いんですから。

 

でもそうじゃない。ちゃんとそういうのがないと「こいつ文書くの下手だな」とか言われるわけじゃん。文ってのは伝われば良いもののはずなのにね。

 

そう考えると言語って、美学的なものがすごい含まれてるなと。

 

まあ極論を言えば、あらゆるすべてのものにA,B,C,~~~とかそういう記号的な名前でも良いわけですからね。

 

そう、その、「意味」から「言葉」にする処理というか、「意味」と「言葉」のマッチングというか、結びつけを、なんか、こう、すごい感覚的にというか、美的感覚で行っているような気がするんですよね。

 

ヲタク的な「いやこの時のシーンはきっとこういう意図で言ってたんですぞ!!」みたいな、あるいは腐女子的な、こう「○○と○○のカップリングこそが志向!」みたいな、

 

そういう精神性に近い、こだわりみたいなんがあると思うんですよね。

 

「大阪の坂の文字が不吉だから阪に変えます」みたいな。あるいは「言霊」みたいな。

そういうところにもそういう精神性が見えるよね。ヲタク的な、集中的な部分が、真面目さとも言っていいが。

 

つまり、ある「意味」に対して、この「言葉」こそがふさわしい!!みたいな、

そういう感覚で古来から言葉を作ってきたんっじゃないかと勝手に妄想してるわ

 

まあ海外もそういう感じなんだろうけど、すごい日本はそういう拘りが強い感じがするわ。オタク気質なんだよな。

 

なんか、日本ってそういう、良くも悪くも感情論になりやすい部分があるよね。

法律とか政治とかも、そういう個人の、あるいは権力者の感情によって左右されてるところとか強いじゃん。

 

まあ最近はそういうのが薄まっていき、権力者は冷たい感情で民を切り捨てる。みたいな、そういうベクトルがあるのは否めないけどな。

 

例えばホ●エモンみたいな、そういう冷たい人が有名になって言ってるわけじゃん。それがクールとか言われて称賛されてる部分もあるわけじゃん。まあ嫌いなやつも多いけどな。(俺も嫌い)

 

なんか、明治維新前の日本の、そういうお互い助け合って生きていこうみたいな、そういう温かい感じの感じが、文明開化で西洋で染まっていき、そういう冷たい感じで日本のそういう雰囲気がなくなって言ってるんだろうな。

 

だからこそ、大正とかの文豪たちは「明治維新でもう日本終わりだよ」みたいに言ってたと聞きますわ。そういうことを三橋TVとかで言ってたわ。

 

なんというか、「カンジョウヲステナサイ」みたいな「ロボットになれ!!」みたいな。そういう風潮になってるよな。まあでもそれでもニートは増え続けるんだけどね。誰しもロボットになりたくないものだ。

 

そういうこという”更年期の妙齢のお方”(自主規制)が主役のをTVでなんかやってた番組合ったよな。

 

なんか理髪店とかやってる若者に対して「ロボットになれ」ってヒステリー起こすみたいな…w

お前がロボットになれよって思ってたわ当時。ジュラル星人かよ。何感情出しちゃってんの?

 

 

だが、前述の通り、そういう感情的な部分は多少残っているというか、そういうところが言語を考察するとなんとなく感じちゃうよね。

 

西洋の文化が入ってきたからとて、そんな変わるわけないんですよね。

 

でもまあ、守らないといけないよな。日本を。楽園を地獄に変えないように、

 

気がついたら手遅れみたいなことにならないように、れいわ新選組を広めるべきだよ。切り抜きを見よう。