日本語ってノリなんじゃないかという持論

専門家の話を聞いたら日本語習得を諦めたくなった【今井先生ゲスト回1】#137 - YouTube

 

モノの数え方、何本、何匹、

なぜ数字だけじゃだめななのか、

何故単位が必要なのか

例えば

「いぬいくつ飼ってる? 」「2」

 

とかでも伝わるのに、なんで「2匹」なのか

「匹って必要??」

 

 

みたいなことを行っている動画です。その疑問の女の子一人と男の子二人のハーレムが解説するみたいな

 

これに対してこうなんじゃねって思ったので言います

 

ずばり、音の言いやすさなんじゃないかと。

 

まあ専門的な知識とかないから、自分の知識で考えた場合、その単位みたいなのをつけることによって言いやすくなると考えた

 

こう、発音って、区切りというか、物語というか、序破急、とか起承転結みたいに、物語じゃないけども、美しさだったり言いやすさだったり、解釈一致をすごいしてくるような気がするんですよね。

 

例えば前の例でいうと、

 

「犬いくつかってる?」「2」、って答えるわけじゃん。

 

でも「に」って言いずらくない?

 

なんか途中で終わったみたいな感覚になるじゃん。

 

もし2の発音が「にん」とかだったら、「ああ最後まで行ったな」っていう「音の感覚があるじゃん。

 

あるいはサン、ヨン、ゴ、ロク、だったりとかさ、それはなんか、音的に「安定してる感」があるじゃん。

 

一方で、ナナ、シチ、キュウ、も言いずらい気がする。なんか急にストップされてるような、あと一文字!なんかいいたい!!って感じになる。

 

 

まあ俺は何にも知識ないから、なんで言いずらいと感じるのかわからないけどさあ、

 

なんか例えば「シチ」に注目すると、シ、と、チ、を連続でいうのが、口腔内でこう、言いずらいじゃん。

 

シ、チ、で止まる、止まらないといけない。

なんか勢い余って何か言ってしまいそうになるけど、ここで止まらないといけない、っていうかさ。

 

この言いずらさを解消するための単位なんじゃないかと。

 

これがシチヒキ、ニヒキ、ナナヒキ、キュウヒキ、とかだったら言いやすくならない?

 

なんかこう、発音の機構的に、「ここで止めるのは言いずらいよ~」ってのを解決するための単位なんじゃないか。

 

なんかさあ。そういう言葉あるよね。

 

例えばドイツ語が、「シュトレンリッヒ」みたいに、意味はどうでもよくて、発音自体がカッコいいみたいなさあ。

 

横文字を使いたくなる意識高い系みたいな、そういうの馬鹿にしがちだけど、人間だれしもそういう中二心があるというかさあ。

 

例えば名前とかもそうだよね。

 

ゆめ、とか、タケル、とか、でもこれが

 

夢歩「ゆめぽ」だとか岳琉「だける」とか、漢字的には大丈夫だけど、発音的にはアウツって思わん?

 

いやこの例は分かりづらいか、

なんか他にもあると思うけど例えば「姉妹都市」ってよく言うじゃん?姉妹サイトとか、

なんで「兄弟都市」じゃないんだろうって思ってたけど、単にそれは「発音しやすいから」と考えると腑に落ちる。

 

なんか「兄弟都市」はきょ、う、だ、い、と、し、で、6カウントじゃん

 

でも「姉妹都市は」「し、ま、い、と、し」でごカウント。

 

あと兄弟ってこう、山で例えると上下に上り下りしている感覚でいいずらいけど、

しまいだと、なんか坂道を降りていくみたいな感覚で言いやすい。

 

 

そういう、いいやすい、いいずらい!みたい要素って、絶対にあるよな。

 

そういうなんというか、美意識的なものがあるよね。

そういうのを無意識的にあるんだろうなと。そうやって言葉が作られていくんだろうな。

 

なんか合理性とかもあるんだろうけども、かっこよさだったり、気に入ったりとか、そういう感情的なものがさあ。

 

 

なんかそういうノリみたいなので作られてるんじゃないかというね。っていうか言語なりミームなりっていうのは、そういうもんでしょ。

完璧に設計された、無駄のない言語はさ、そういうことを把握してないというかさあ、無機質な言語ってなんか、つまらにじゃん

 

そんなのつまらないと思うんですよね。

 

つまり逆に言うならば、言語っていうのは、楽しくないとダメなんだなって。

 

いや、まあそれは過言かもしれないが、なんというか、つまらない、嫌な言語はみんな使われなくなっていき、そういうふうに生き物と同じように淘汰されて行って、優先度的な感じで徐々に消滅し、あるいは生まれてていく感じで変化していくもんなんだろうなって。

 

そう考えると言語って、古来より存在した妄想の仮想の世界に生きる、ミーム(生命体)のような、

 

進化アルゴリズムっていう手法を意図せずして使ってる感じがするというかね。

 

そういう意味でも、なんというか、言語っていうのは、まるでその使う人達の魂そのものというか、美的感覚というか、なんかこう、精神性を表現した一種の芸術なのかもしれないな

 

まあ、そこに合理的理由はあると思う、例えば美しいからって何十文字の単語はあまり使わないよねって。便利さ、つまり合理性もあるよなと。でもそれだけじゃないよねって。それかつ美しさみたいなものも入ってるよなと。

 

なんというか、そういうのって学者とかがちゃんと説明できるのかもしれないけどさあ、全部。

 

でも仮に説明できないとて、ちゃんとその裏には隠された理由があって、それに従ってみんな無意識に法則通りに動いているって思うと、なんか面白いよな。

 

そういうまだ説明されてないものがたくさんあるんだろうな。

 

 

 

あとさあ、なんか偶に「英語はノリで覚えるもんだ」みたいな派閥というか、学習法あるじゃん?

なんか「実際に英語圏で会話しないと身につかないよ」みたいな。

 

それって日本語も同じことなのかなって。

 

言語っていうのはこう、そういうふうにノリで作られてるんだから、そういう曖昧な、抽象的なノリ的な感じで覚えるもんだから、なんかこう、全てを覚えるんじゃなくて才芸源の単語さえ覚えておけば、あとは実際に使っていくことで~みたいな。

 

 

そう考えると別に日本語の単位って、そこまで難しくないと思うんだよな。別に魚のことを何本とか呼んでも伝わるわけじゃん。そして多分それを聞いた人は訂正してくれるだろうからその時に覚えられるでしょって。

 

つまりノリであると。

 

それは英語も同じなんだけども、なんというかそのベクトルがなんか違うような気がするわな。

 

日本は「解釈一致」、英語は「速攻」みたいな。

 

ポケモンで例えると、日本は「一撃」、英語は「連撃」みたいな。

 

日本は質に思きをおいて、英語は数に重きをおいている気がするわ。

 

そういうベクトルの違いがあるよね。

 

まあ全部俺のイメージで、特にデータとかはないんですけどね。