開祖が一番の加害者であり一番の被害者だよな

 

宗教があるじゃん?名前を言うのも恐ろしいえげつない宗教。まあいい人もいるんだろうけどさあ。過激派は一部なんだろうが。三大のね。

 

でもそういう人から集金して肥え太ってる幹部。

宗教にすがるしかない弱い人からさらに吸い上げてるから、弱い人も間接的に悪の味方になっているっていう、そういう権力者のツール的な宗教があるじゃん?。

 

なんかそういうでかい宗教ってさあ、開祖がいるじゃん?まあカルトにもいるけど今はそれは除いてさあ。大昔にそういう元となった人がいるわけじゃん。

 

最初に「こういうことをしたら救われるよ!」っていうことを先に言いだしたやつがいて、組織的になっていって戦争の道具に使われて今に至るわけですがね。

 

正直宗教というものをえげつねえ恐ろしい気持ち悪いものとして俺は捉えてるんだがね。でも正直、最初のその開祖の人はさあ、良いことをしようと思ったと思うんだよな。

 

いやなんというかね。良いことというか、「感覚」だと思うんだよね。

 

なんかこう、昔はそういうね、開祖のことを「悪い組織の親玉」みたいな感じで見ていたけど歴史を勉強するに連れて嫌そうじゃなくね?ってなってね。

 

なんかこう、そういう開祖だったとしても最初はただの人だったわけじゃん?

 

例えば俺が「うんち教を広めよう!」とか言っても、誰も耳を貸してくれないわけじゃん。

だってみんな「うんちって何?」ってなるわけだし。「やべえ頭のおかしいやつが来た…」ってしかならないじゃん。

 

なんか皆聞いてみてほしいけどさあ、そういう宗教に浸かっている人に対して、「じゃああなたは〇〇教という組織が存在しない世界でも、その神様なり死後の世界なりを信じますか?」「あなたのバックがいなくても勧誘活動できますか?」って聞いてほしいわ。

どうせ「できらぁ!!」っていうだろうけど、多分それは嘘です。できませんわ。

 

開祖も同じ状況だよね。一番最初の人なんだから下地があるわけじゃないじゃん。

宗教がよく使う理屈、「〇〇教だから偉いんだぞ!◯◯教だから正しいんだぞ!」からの「俺たちの教えが通用しないなら集団暴力だ!!」がスタート時には通用できないわけですよね。

 

だからそういう状況から組織を広げていくっていうのはとんでもない熱とか執着が必要じゃん?

 

まず開祖自身がそれを信じてないといけないわけだよね。疑う余地無く。なんかカルトマニュアルみたいな本で、開祖が一番教えを信じないといけない、みたいなことを言っていたわけですよね。

 

そうじゃないと人はついてこないからね。マツダなんとかも言ってたけど、人に教えるときは自分ができてないといけない、やってみせねば踊らなソンソン。みたいなことを言っていたわけですよ。

 

そういうね、彼らのその熱意はどこから来ていたかと言うと、「感覚」何じゃないかと思うんですよね。

感覚、概念、ゲシュタルト言語化できないなんかこう、めっちゃいい感覚。

 

それを広めようとしていたんじゃねーかと思うんですよね。なんかふと思った。

 

だってさあ、なんかたまにあるじゃん。夢とかでなんかすごい気持ちよかったり、なんか真に迫ってたりして起きてもしばらくその感覚が続くことあるじゃん?

 

それがなんか、宗教の始まりだったんじゃないかって思うんですよね。

 

 

それを他人に伝えようと、どうにか言語化したのが戒律とか経典とかされてるものなんだろうな。

 

だけどもその「言語化」によって、その、最初のその「感覚」はどんどん薄まって消えていったと思うんですよね。伝言ゲームみたいなさあ。最初のその初期衝動みたいなものは消えていくわけですよ。一番大事なものなのに。っていうか広ませなくても自分だけのものにすればよかったのにな。

 

そういういちばん大事なものって、開祖でさえわからなくなっていくものだと思うし、伝達するならなおさらだよな。

 

広がっていくに連れ、組織がデカくなっていくに連れ、欲だとか自尊心だとか、敵対心や恐怖心とかサディズムとか、そういうものに上書きされていって完全に消えていったんだろうなって。

 

 

それってすごい悲しくない?

 

だからこそ、なんだろう。宗教において重要なのは、なんか死後なんたらかんたらとか、なんか神様がどうとか他の宗教はクソだとか、そういう口伝的なものではなく、ちゃんとした瞑想とか修行とか、そういう健康になろう的な、その運動しようっていうエクササイズ的なものとか、(もちろん荒行はNG)

 

あるいは弱いものを保護しますよみたいな、人助けとか、そういう感じの役割が重要というかね。まあそれは宗教じゃなくてもいいんだが。教会や寺とかはそういう役割も担ってたとかどっかで聞いた。

 

そのほうがさあ、開祖のその「感覚」に近づけると思うんだよな。

 

それこそが本来の目的だったはずなのにねー。

 

 

っていうかさあ、多分その「感覚」って、地球上でみんな自分のところが一番すごいものだと思ってるかもしれないけど、多分ちがくて、これ以上の「感覚」っていうのはいたんだろうなって。

 

その、開祖たちの初期衝動、「めっちゃいい!!!」の、何億何百倍もめっちゃいい感覚をまとっているやつなんて、いくらでもいたんだろうなって。

 

でもそれを広めなかっただけ。それよりもこの感覚がもっとほしい、的な。そういうやつはいくらでもいたんだろうな。そういう気がする。なんか極めたやつはもうそうういの興味無くなってるんだろうな。仙人的な、下々のものに興味がないというか。

世界は広いから絶対そういうやつはいたよ絶対

 

なんだろう。実際のところその開祖たちの「感覚」はしょぼかった可能性もあるよな。じゃなきゃ広めようとか思わなくない?

 

孤高の寂しさを塗りつぶすほどではなかったんじゃね? 「気持ちいい!」より「共有したい!」っていう感覚を優先するほど、その「感覚」は程度が低いのかよ?

 

 

 

まあともかく、宗教の役割って本来はそういうことなんじゃないかと思うんだよね。言葉ではなく感覚を伝えることが、本来の役割だったんじゃないか。結局ね。

 

それで「感覚【クオリア)を伝える」ってのは超能力者でない限りできないわけだから、少しでも近づけるように瞑想とかエクササイズ的な方向に伸ばすべきだったんだよ宗教は。

 

そう思ったきっかけは、前々から思ってたんだけども、なんかこう宗教って気持ち悪いなって思って、その理由を考えたんだけど、なんか垢みたいなのが溜まってるイメージない?って思ったんですよね。

 

垢というか、執着ですよね。見てるとさ。なんかこう、粘っこい寝ちゃ付く何かを感じるわけですそのデザインに。他の宗教の芸術もそうだけど。なんか絶望を感じるわけですよね。凡庸な何か。多くの凡人が集合してる感じがするわけですよ。

 

ゾンビ的な、数だけ多いから強いんだけど、なんか合理性がないというか。

 

それを感じて思ったんだが、なんか違くない?開祖のその初期衝動はこんなもんだったの?ってさ。

 

結局みんな宗教を「ツール」として扱ってるんじゃないかと。

 

便利な道具として見ているというか、結局、「〇〇教だから偉い!否定するやつは悪!!」ってなってしまっている

 

だから、あの「凡庸さ」だと思うんだよね。

 

なんかさあ、例えば食い物を例にするね。

 

食べ物ってどこの国も美味いじゃん。イギリス料理がまずいって言われてるけどまああれは置いといて美味いじゃん?

 

その理由はただただ「美味い!!」という気持ちよさを追求した結果なわけじゃんね。

 

だからこそ文化としていらないものを削ぎ落とし、色々な可能性を試した結果料理という文化が成熟していった。だから美味いわけじゃん。

 

それ以外の音楽とか絵とか色々な芸術なり文化なりも同じですよ。そういう気持ちよさを追求した結果良くなっていく。

 

つまり「文化」って科学と同じく合理性の塊なわけじゃん。

 

科学は「論理」で最適化をしていく合理の塊だけど、文化の場合は「論理」ではなく「気持ちよさ」、つまり「感覚」による最適化だよね。

 

その「美味さ」、「美しさ」、「気持ちよさ」を追求していった結果、良くなっていくことは当たり前の話ですよね。

 

そういうわけだけど、ただ宗教だけは違うわけですよ。

 

「これを入れたら面白いんじゃないか?」「これとこれを組み合わせたらマズイ」「これは今の時代には不適当だな」だとか、そいういうんじゃなくて、

 

「俺は正しいから正しいんだ!!」そして、「俺たちの教えが理解できないなら皆で暴力するぞ!!」、「教えを破る(脱退)するやつはジゴクイキだぞ!!」ってだけをずっと続けて組織をデカくしていってるだけというか。こう書くとヤクザだよな実質。

 

なんかそういう、文化や科学における削ぎ落としというか取捨選択というか、いらない不純物を捨てて必要な物を取り入れ、よくしていこう、最適化していくっていう、そういう目的意識が宗教にはない。

 

ヤクザというか、ヒャッハーじゃん。マッドマックスみたいな。車とか改造して、突撃するときに口にスプレーとか塗るやつじゃん。

 

だから気持ち悪いんだよな。ビジュアルといかデザイン性とか考え方が。信念がないというか、紳士ではない。他者依存。それも時代遅れの大昔の無数の凡人たちに依存しているのがね。その信念が見た目に良く出ている。

 

なんか皆で開祖が最初に作り出したその「気持ちよさ」に乗っかって、最終的にデカいだけの「権力」しか残ってないみたいな、そういう感覚がするわ。

 

普通はさ、色々な考え方があってもいいのに、みーんな同じにならないといけなくて、外れたら罰を与えます。歪まないわけがないわな。

 

そう考えると、開祖って不憫だよね。素晴らしいものを広めようとしたのに、伝言ゲーム的に自分が伝えたかったものが変質していったわけだからね。自分の子供が犯罪犯すようなもんだな。

 

そしてこれ、なんか学問の分野でも「哲学」がなんか良く言われてることってどこかで聞いたわ。

 

哲学って論理的に進めないことを延々と言ってるみたいな。進歩しない分野であり、権威みたあなもので守られている分野らしいよ?

 

あと権力とかもさあ、「ワシは偉いから偉いんだ!!」が通用する場所があるじゃん。政治家なり一部の企業なり。

 

それが気持ち悪いのも前述の宗教と同じだと思うわ。

 

みんなツールとしてそのモノを扱ってるだけで、デカいだけでやってけてるだけで、合理が欠けているから気持ち悪いんだろうな。

 

なんか各国の「料理」とは違って「政治」ってどこの国も腐ってるじゃん。たいがい。(例外も多分あるんだろうけど)

 

それは多分削ぎ落としとか合理性が欠けてる、ただただパワーだけで何も考えずに、賢いだけのアホでもできるから腐ってるんだろうな。

 

だかられいわ新選組を推していこうな皆。