過程こそが全てなんだよなぁ(アバッキオの上司)

 

前回の記事の続きなんだが、

 

ここまで言ってきて、俺は自殺肯定派っぽい言動をしていた。

 

しかし、実は

 

割りと中立派というか。反対よりの中立なんだ。

 

 

 

 

つまるところどういうことかというと、

 

自殺したいほど生きているのが嫌ならば、その原因を取り除く根本治療を正義とする派であり、

 

自分は「生こそが正しい派」の亜種に属すると思うんだがね。

 

 

例えば、

他人と比べて死にたく成るならばその人に勝つべきだし、

理想と現実のギャップが有るならば理想を現実にすればいいし

なんとなく生きるのがつらいならば、なんとなく生きるのが楽しくなるようなことをすればいい。

 

でも、

 

それができれば苦労はしない!(ネテロ)

 

どうにもならないことだってあるじゃん。

 

 

環境や生まれたときの地位によって、努力したって意味ないこともよくあるじゃん。

 

誰も助けてくれる人がいなかったり、現代の科学では解決できない問題だってあるわけで、

 

その苦しみから逃れる一つの方法として自殺を選んだとしても、それを否定したくないなと。

 

その苦しみは俺もわかるので。

 

 

 

 

うーん、なんていうかさ。

 

一般的に皆は、「死こそが救い派」と、「生こそが正義派」に分かれているとイメージしているわけじゃん?

 

でもその対立には「何故?」が抜けていると思うんだよね。

 

何故生が良いことなのか?何故死が救いなのか?

 

それを延々と考えて、哲学的に、合理的に考えて

 

「じゃあ俺はこっちだな」「こういう状況では死を選ぶしか無いよな」「死ぬなら死ぬで悪あがきをして行きたいよな」とか。そういう結論なら良し。じゃん?

 

過程こそが大事なんだよなぁ。生か死か、生むか産まないか、

 

どっちを選ぶとしても、その結論に至った理由が大事だと思うんだよね。

 

でも一般的な「生こそが正義派」の人たちは「いやいや!死ぬとかありえないよ!」「どんな状況でも生きるのを諦めるな!」「アフリカの子どもたちのほうがもっと苦しい!」「もっと頑張っている人がいる!」

みたいなさ。

 

そんなのだから何?なんだよなぁ。

 

そういう人たちって、「生こそが正義」という結論有りきで理屈を探しているわけじゃん。

 

全然自分の頭で考えてない。

俺にはそれがわかる。

 

だって、そいつらの言う事、大体毎回全部一緒じゃん。

 

まあそれは、死こそが救い派も同じだと思うんだけども。

 

だからこそ、理由というか、ホワイダニットを中核にして考えるべきで、

 

決して「生が正義」「死が正義」と結論有りきで理由を話すべきじゃないよなと。