なろう小説、進撃の巨人、ワンパンマン、チェンソーマンなどから始まる、サブカル絶対王政から民主化への遷移についての個人的考察

この記事のタイトルを見て、こう思った人がいるかもしれない。

 

なろう小説と進撃様、ワンパンマン様、チェンソーマン様を同列に語るなぁあああああ!と。

 

 

だが私はこの両者について、共通点があると思っている。

 

 

それは、サブカル民主化である。

 

 

つまり面白いを決める人間が編集者などの特定の人間から、読者という大衆に変化したきっかけが、なろう小説、もとい進撃、チェンソーマンなのである。

 

 

それがどういうことなのか、順番に説明したい。

(なお、これは私が読んできたコラムなどを参考に、自分の中で考えた考察なので、間違っているかもしれないことを了承していただきたい)

 

 

 

 

では、まずサブカル民主化とはどういうことなのか。

 

つまり以前のサブカル…ジャンプなどの漫画雑誌は、編集者などの特定の人が面白いかを決めるのである。

 

つまり、まんが雑誌の会社に原稿を持ち込んで、それを編集者が読み、そしてそれを連載させるかしないかを彼が決めるのである。

 

その判断は、彼一人が決める。

つまりサブカルの行く末を決めるのは、彼一人の双肩にかかっていたし、逆を言うならば彼を納得させられれば、連載ができるのだ。

 

彼が持ち込みをされて読む漫画は、中には彼の歯牙にもかからなかったものもあるだろう。絵が下手だったり、ギャグが面白くなかったり、いまいち感動しなかったり。

 

だが、彼が見落としたものの中に、面白い、もしこれが連載していたら、何万何億とヒットしていたものがあったかもしれない。

 

 

もし編集者がNGを出し、それで漫画の筆を折った元漫画家がいたとしたら、どれだけ界隈の損失だろうか。

 

 

もしも、例えばボボボーボ・ボーボボなどの、人によって面白さがわからないといった漫画も、もしかしたら、編集者の独断でNGをくらい、連載できなかった世界線もあったかもしれないのだ。

 

いや漫画だけではなく、小説だったり、イラストだったり、そういったものは、特定の少数の人が判断しゴーサインを出す。

 

そのゴーサインが出たやつだけが、大衆に評価してもらうチャンスを得るのである。

 

ならばその最初のゴーサインからあぶれた漫画も存在し、もしゴーサインが出さえすれば当たっていた漫画も存在するのである。確率的に。

 

確実に、そういった漫画は存在するのである。

この世界に存在するはずだった漫画が、この世界線では存在しないという事実。

 

 

 

 

 

だがその漫画をすくい上げる存在が生まれたのだ。

 

それがネットである。

 

ネットで自分の制作した作品をアップするという文化が生まれたことによって、編集者という関門はいなくなり、最初から大衆に評価してもらうことができたのである。

 

 

 

そしてその新世代のサブカルの、代表的なものこそが、なろう小説なのだ。

 

 

普通小説家は、編集者に自分の文章を認めてもらわねばならない。

それで初めて評価されることができる。

 

 

だがなろう小説はそういうものが一切ない。

最初から大衆に評価してもらえる。

 

だからこそ、文章が下手でも、陳腐であっても、テンプレであっても、読者は正直に自分の求める小説を読むことができ、作者は編集者という関門を突破せず正当な評価を受けることができるのだ。

 

 

それが、小説に限らずあらゆる界隈にも起きているのである。

 

ワンパンマンとかもそうである。

ワンパンマンは、絵が下手であるので、当然編集者に持っていけば高確率でNGをくらい「漫画家諦めな」とか言われるはずだったのが、

ネットで内容が面白いと評価され、商業化し、ゲームとかにもなった。モブサイコ100とかいう別の作品も作ることができた。

 

 

(ちなみに、ここまで書いたことは、私が昔読んだ本に書いてあったことである。)

 

 

 

そして、進撃の巨人は、今行ったそれとは別の要因で有名になれた作品である。

(ここからはネットはあまり関係ない話になるのだが。)

 

みなさんも知っているかもしれないが、ジャンプは進撃の巨人を「ジャンプらしい漫画をもってこい」といってNGを出した漫画である。

 

そして進撃の巨人の作者は、別の雑誌に持っていき、連載して有名になった。つまりジャンプは金の生むガチョウを逃したのである。

 

それを反省したのか、ジャンプらしくない漫画、チェンソーマンの作者を取り入れて、その漫画は人気作になった。

 

これもまた、サブカル民主化によるものだと考えることもできるかもしれない。

 

 

少なくとも、ジャンプ編集者も気が付き始めているだろう。

「編集者の面白い面白くないの判断は、案外あてにならない」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ、当たり前の話ではあるのだ。

 

人数が少ないより、多い方がいい、というのは、あらゆる状況に当てはまるものではないかもしれないが、

 

少なくともこの状況では、少ないよりも多いほうがいい。

 

閉鎖された環境による人間の判断は間違うこともある。

 

例えばゲーム制作においても、製作者がテストプレイをするのと、全く関係ない第三者がテストプレイするのとでは、後者のほうが良いことであろう。

 

 

 

そういう当たり前のことを治していくことによって、人の行うシステムはより良くなっていくのである。

 

 

だがそれは別に特別な方法でも、頭が良いものがだけが気づけるものではないのだ。

 

確かにインターネットという過去にはない技術によってサブカルはよりよく発展していっている事情はあるのだろうが、それ以前にも工夫しより良くなろうと思えばいくらでもよくなれたのである。

 

そういう点において、哲学と言うか、一度立ち止まって決めるということの大事さを実感したのであった。