自我とは時間スケールが狭いということ、つまり言葉により生まれたのではないかという仮説。

 

 

ふと思ったのです。

 

チーターとか、馬とか、野生の動物は、トップスピードが速いじゃないですか。

時速何キロとか、乗り物に匹敵する速さで移動しますよね。

 

でも人間も捨てたもんじゃなくて、初速が速いらしいじゃないですか。人間の場合。トップスピード最高時速は遅いけど、素早くその最高時速を出すことができるみたいな。

 

これ、割と速度以外もそうなんじゃないかと思ったんですよね。

 

つまり意識。知能。

 

動物とかは力とか速度は強い。でもその力を細かくコントロールすることができなくて、

逆に人間は力や速度は弱いが、細かくコントロールできると。

 

それが意識にも現れているのではないか。

 

話は変わるが、なんかどっか解説動画で、時間という概念が存在しない部族がいるらしいじゃないですか。アモンダワ族っていう。

 

時間が存在しない 部族 - Google 検索

 

 

その人達は、常に森の中で過ごしていて「距離」というものを意識してこなかったから「時間」というものを理解出来ないらしいです。

 

何を言ってるか分からねーと思うが、つまり、森の中で常に目の前に葉っぱとかがあるから、常に彼らは狭い空間の中にいるわけですよ。

 

そして時間という概念は運動によって理解するものじゃないですか。ボールを遠くに投げたり、歩いたりとかして、自分が出発してからどのくらいで付くとか、そういうふうに時間って認識するじゃん?

でもそれがアモンダワ族には狭い空間の中で生活していて「距離」という概念を認識しづらい。文化的に。

その学習の機会がなかったから、時間という概念が存在しないという。

 

それと同じように、人間の意識、自我は、そういう「細かい時間」「狭い時間スケール」によって作られていったのではないかと。そう思ったんですよね。

 

 

まず、人間以外の動物や植物も多分意識があるじゃないですか。

昔の人とかは多分、動物は意識がない、無意識だけで行動してるとか、そういう考えだったような気がしますが、なんかこう、猫とか犬とか見てるとこいつ「理解」ってるなって直感するじゃん?

 

 

でもその意識っていうのは人間だけ特別じゃないですか。

 

なんかこう、すごい複雑な事を考えたり文明を作ったりとか。

 

じゃあ何が違うんだろう?って考えて、それってもDNAだとか、神経細胞の数だとか、そういうのは多分結果に過ぎなくて、

 

人間がこういうふうに進化した原因はおそらく時間的間隔だと思うんですよね。アモンダワ族の時間という概念が存在しない理由と同じく、そういう物理的なものなんじゃないかと。

 

 

人間がもつ「自我」という意識は、すごい解像度が高いというか、時間的感覚がおそらく狭いというかスケールが小さいというか、細かいと思うんですよ。だからこう、会話とかができるし、ゲームをしたり、その瞬間瞬間で判断ができるっていう。

 

一方で「無意識」っていうのはスケールが大きい意識。例えば無意識にこう、習慣づけてることをやってしまうとか。心臓を動かしたり体を動かしたりみたいな。そういう意識。それは細かい調整とかはできないじゃないですか。例えばDIOが心臓の鼓動に耳を傾けたからと言って、意識的に心臓の鼓動を止めることはできない。

なぜならそれは無意識にやってる部門だから。心臓を動かすっていうのは、長い時間スケールをかけて学習してる部分だから意識的に心臓を止めることはできない。

人間以外の動物とかあらゆる生き物はおそらくこの「無意識」を主体に行動しているわけですよ。だから自我が本能を上回らないでプログラム通りに動くことができるわけじゃないですか。

 

つまり前者は時間的スケールが小さい、細かい。後者は時間的スケールが大きい。そういう意識だと思うんですよね。

 

この2つの意識(実際は2つとかじゃなくてスペクトラム的に中間があるんだろうが)、は、人間だけじゃなくて動物や植物とあにもあると思うんですよね。

 

 

例えば昆虫とか野生動物とかも学習はするじゃないですか。例えばイモムシとかも実験とかでちゃんと味を覚えてるとか記憶力があるみたいなことをどっかで聞いたことがある。だから時間的スケールが小さい意識、自我は人間以外にも多分存在するんだろう。

 

でもそれは人間に比べれば弱すぎるというか、逆に人間が強いというわけですよね。自我が。

 

株に例えるならば、何年もかけて株を取得して、それをじっくり育ててから利益を得るっていう長期投資。つまり長期的視点によってアドバンテージを取る。それが無意識であり、

一秒や数分とか、そのぐらいの瞬間の値動きを狙って買ったり売ったりするスクレイピング、つまり短期的視点によってアドバンテージを取るのが自我、みたいな。

 

まあそれは株とかに限らず、長期的視点や短期的視点とか、そういうのがあるじゃないですか。会社然り何にせよ。どっちも必要だよねっていう。

 

長期的視点だけで考えて自分の健康とかを顧みずに他人を助けまくって恩を売りまくることも自分が健康を害して死ぬリスクが高まるし、

短期的視点で考えて社員を首にしまくったり粉飾決算したりして今だけ助かればいいやっていうのも違いますよね。

 

長期的視点で考えて、毎日必ずこの勉強をする!訓練をする!!って決めてやるせいで、精神的にグロッキーになっても、死ぬリスクが高まる効率が悪くなる

短期的視点で考えて、今だけ楽しければいいやで暴飲暴食しても死ぬリスクが高まる積むわけでしょ

 

長期的視点も短期的視点もどっちも戦略的に必要な考え方じゃん。そういう自然の知恵というか。

両方存在すること、それが人間や動物にとって有利だったから、「自我」と「無意識」が存在すると思うんですよね。

 

倫理的な視点を取っ払って考えるなら、種族が生き残るために自我は邪魔ですよね。

 

なんかこう、ウイルスとかみたいに、一発一発がダメでも高速で世代を重ねて言って最強の個体を作る、みたいな。

 

優生思想的な感じにしたほうが生存には有利じゃないですか。ザイム真理教みたいに増税して弱いやつは殺すって言ったほうが、一見種族的に生存に有利じゃないですか。

 

だがまあ、それだとダメなんだろうね。

 

おそらくそういう長期的な視点だけでは、おそらく滅ぶ感じになっちゃうんだろうな。

 

そうやって弱い個体を殺戮して強い個体を生み出したとしても、多様性がないからね。

 

「強い」と一言で言っても、それは一点特化してるだけじゃないですか。

 

昔の人は力が強ければ「強い」ってされてたけど、今の人は頭が良ければ「強い」ってされるじゃないですか。

 

一点特化にすぎないんだよな。強いって。

 

まあ仮に「毒に強いです。力が強いです。走る力が強いです。IQが高いです」っていう個体だらけになったとしても、「隕石が落ちてきました」とかで死ぬみたいな。

 

でも多様性があれば、あらゆる視点が生まれるわけじゃないですか。それでこの世界の真理というか、それが分かってくると思うんですよね。つまり科学が発達する。それで隕石さえも止められるかもしれないわけですよ。完全体になるためには多くの視点が必要なんだろうな。

 

まあでも、それが理由で自我が生まれたわけではないんだろうな。

 

後で後述するように「言葉」によって自我というものが生まれて、それが偶然いい感じに科学が発達できたから人間は最強なんだろうな。

 

まあスピリチュアル的にいうならば、あるいはロマン的にいうならば、「自我こそが正義」「運命だったのだ」「神的なアレが創造したのだ」「宇宙からやってきた」とかそういうことを言いたくなるけどもね。

 

だって動物的な本能だけで生きるのは楽なんだろうが、なんかこう、ヤダ。

 

なんかこう、自我がない、動物とか虫とかは、苦しみとかは少ないんだろうが、なんかヤダなーって思うわけですよね。人間がそういう自我がない存在でなくてよかったと思うわけですよね。

 

なんか話は脱線するが、なんかSF的な話でよく宇宙人とかが自我をなくしてそういう一つの生命体になる、みたいなやつあるじゃん。グレンラガンのアンチスパイラルとか。

 

こう考えると、あれって割りと退化してるよなって。昆虫や動物みたいな意識になるってことだろ?

 

もし仮に真に進化した生命体があるとするとするならば、そういう無意識と自我をうまく調整して、生存に有利なような合理的な方法とか構造が必要なのにな。

 

なんかああいう一つの意識体って、「まとめとけやええねん!!!」っていう雑さを感じるよな。材料を全てミキサーにかけて美味しい料理になる!!みたいな。今にして思うと。

 

 

 

ともかくつまり自我というのは短期的時間スケールを捉えるためのものだと思うんですよね。

 

普通の動物は、本質的に心臓を動かすとか繁殖するとか、無意識で何かをやるとか、そういうプログラム的な感じで行きていますけども、人間は違いますよってことです。

 

いやまあ人間もそういう長期的な意識はあるにはあるし、動物にも短期的な意識はあるんだろうが。どっちも2つ両方存在するんだろうが。

 

人間は自我が強く、動物は弱いというわけです。

分量の問題。

 

そういう仮説。

 

 

そしてなぜこういう自我が人間だけ発達したのかというと、言葉なんじゃないかと思うんですよね。

 

言葉っていうのは、瞬間瞬間で、自意識で切り替えることができるじゃん。

 

例えば、物を食べるとか、狩りをするっていう行為は、時間がかかるわけで、何時間とかかかるわけですよね。そういう時間感覚なわけじゃん。

 

でも言葉を偶然にせよ覚えた人類は、言葉を使ってこう、一瞬一瞬のコミュニケーションでなんかこう、自分のその群れでの立ち位置みたいなのが変わってくるわけだからある意味死活問題なわけじゃん。

 

ゲームに例えるならば一瞬一瞬の判断が勝敗に左右するFPSとかをしているようなもんですよね。

 

あと言葉を使ってあらゆるものを思い出せるわけじゃん。

脳内だけだがあらゆるものを想起したり生み出したりできるわけですよ。

 

だから例えば、狩りをして食べてその後移動して~みたな予定を考えることができるわけで、

実際にそれを実行するときは意識としては長期的な時間間隔になるわけだけど、そうやって予定を立てるっていうことは数秒でできるわけじゃないですか。

 

だからこそ、自我、短期的な意識が発達したんじゃないかと。つまり言葉が自我というもんを発達させるのではないか。

 

まあこれは俺が考えたことじゃない気がする。

こういうことを他の人が言ってた気がするけど。

 

俺が発案した(多分)のは、意識というのは2つ合って、短期的意識(自我)と、長期的意識(本能とか無意識とか)なんじゃないか。っていうことだな。