なんか、あまり言いたくないから言わないけども、いや別に行っても良いんだが、一応伏せるが、
最近、ある出来事があったわけです。それは運勢で言えば仕事運的なものです。
それによって、自分の中で「権力を持つもの」に対する意見が変わってきたと言うか。
前々から思ってたけども、なんというか実感を持つものに変わったなと。
やはり俺は、「ノブレス・オブリージュ」というか、権力を持つものはそれ相応の賢さやらカリスマを持つべきと言うか、最低限まともであるべきだろと。
力を持つものはやはり、そうであるべきなんじゃないかと思ったわけです。
それは、聞き飽きたよ自己啓発的なものうなものように見返すとそう見えるが、
そうではなく、winwin的な関係を目指しつつ、それが無理ならwinloss(こちらがwin)に寄せるしかないわけだけども。
それを前提にしつつも。
そういう俺個人の自己中心的な感覚でいえば、やはり偉い人は偉いなりの行動を取らないと、そうしないと不満かもしれないと思ったわけです。そうでなければカッコ悪いだろと。
つまり、仕事とか、プロジェクトとか、そういう部分においては、人は欲を克服するべきなんじゃないかと思ったわけですね。もちろん欲も大事だけど両立、分ける必要があるというか。
そしてそれは「責任」とか「そうすべき」ではなく、「そのほうがカッコいい」という、俺個人の感覚として望ましいと思ったわけです。
別にまあ、自分が得をして他人を損させるために動くこともできるわけだけどもそんなことしたら力が抜けるなと思ったわけです。
例えるなら、漫画のキャラがその正確にそぐわない行動を取ると、「え?こういうルールだったよね?」ってなんかむしゃくしゃするじゃないですか。
そういうルールに則とると、そういう風になるよねと思ったわけです。
これが真の善性というやつ何だなと思ったわけです。文化とか親の教育によらない俺本来の善性だと思いました。
本来と言うか、まあでも、俺も悪の道に行く可能性は合ったよなと思ったわけです。
いや、今もそういう感覚はあるよなと。イキリ的な感覚。今もあるけど。自分が一番この世で尊いっていう感覚はあるじゃん誰しも。
そして、自分が生き残るためなら他人を損させることも構わない、犯罪とかも、それをやらないと生きていけないならやらざるを得ないと、そういう感覚があるじゃん。
でも一方で、それをやったらなんか悩むよなと。やっぱり悪く思われたくないと思うし、かつ人に良い人と思われたいという欲があるよなと。
(そしてその一方で「いや他人キメエわ」っていう嫌悪感も同時にあると思うわけです。)
つまりどういうことかというと、昔の自分は無味無臭的な自分というものを目標にしていたわけです。
あからさまな善というのはカッコ悪いという、その善悪とかにこだわらずに自分が得する選択をしたいなと。
そしてそれは今も変わっていないわけですが、やはり本能というか、今いった自己中心的な理想とは別の部分で「他人からよく思われたい」というものが同時並行でありますよねと。
そしてそれは俺だけじゃなくて誰しもが持っているものなんだろうなと。だからこそ善行というのは体に良いみたいなことを仏教とかが言ってるんだろうな。
だがしかし、その「善行」みたいなのを俺個人としてはあからさまにやる必要はないと思うわけです。ゴミ拾いやボランティアをする必要はないと。そして悪いこともする必要はない
自分は自分の置かれた状況の中で、自分が損しない範囲の、自分が動かせる範囲のことをすればいいのだと思ったです。
なんかこう、そういうバランス感覚というのが、経験でしか身につかないものだなとお思ったわけです。
過去を振り返るとすごい、何かに対して過剰だったり、あるいはなさ過ぎだったことがあるわけですよね。今行った「善行」も、何も言われてないのにゴミ拾いとかしたことがあったし、アレも無駄だったと思うわけです。
あと例えばせどりをしたことがあるけど、やっぱりアレはよくないなと思ってやめました。自分の手におえる「悪」ではないなと。
なんというか犯罪とかではないんだろうけど、店員とかの態度からそういうのをやめてくれ的な圧力を感じたと言うか、
まあ普通に物を買ってるだけだから別に犯罪とかではないんだけど、やはりそこらへん自分は悪くないと押し切ることができないという
それが自分の特性をしるうえで大事だったなと。
他にもなんか転載する系のYouTubeのシノギがありますけど、海外のおもしろ動画を翻訳するショートもあるけど、あれもなんか、無理だよねー。そこまでの他人の褌で何かを得たくないなと。それお前の「面白」じゃないじゃんっていう。
その善悪の基準というか、俺が手に追える部分の領域というか、そういうのがあって、なんというかここらへんは自分でコントロールできるものじゃないというか、克服しようと思えばできるかもしれないが、絶対不幸になりますよねという。
もしそういう善悪の基準を無視して、完全に合理的に行動したら、絶対にどこかで諦めることになるだろうということが、これまでの経験からわかるわけです。
そして話は変わるが、やっぱりそういう自分の感覚をやはり他人にも適用させるもんじゃないですか。適用というか、そういう物差しでしか世界を見れないというか、見てしまうというか。
だからこそ俺は政治家のくせに汚職ウンコに成り果てた昆虫以下の売国奴が嫌いなんだなと思ったわけです。
なんかそういう話を初めて聞いた時、すごい嫌悪感が合ったわけですよね。
それまではちゃんと日本はしっかりしてるんだろうと思ったんだけど、おわかりの通り酷いじゃん。増税とか。被災者を見捨てて、印象操作して「私は悪くありませーん」って顔をしているのとか。
そういうのを始めて聞いた時、本能的にそういう、「ノブレス・オブリージュ」的な考えが俺の中にあったなと思うわけです。だから怒りがあったわけです。
「え?なんで偉くて権力があってお金もあるのに、そんな貧しい行動を取るんだろう」って思ったわけです。
ムカついたし、同時に不思議だった。
あいつらは、他人に大迷惑をかけておきながら辞めないじゃん。
そういうの、感覚がわからないわけですよね。
「怖くないのか?」って言う。
例えば「一兆円挙げる権力もあげる、そのかわり大量に人が死にます」っていう等価交換を持ちかけられた時、それは無理なボタンじゃん。
なんかこう、押す前は「そんなんできるわw」って思うかもしれないが、でも押したあとは同じ世界でいられるわけ無いんですよ。
「人を殺す」ってそんなんじゃないよっていう。間接的にも人殺しってずっとそれがつきまとうわけじゃん。
なんというか、誰しもが持っている前述の「真の善性」の許容できる容量じゃないわけだよね。あまりにも罪が重すぎる。
法律とかそういうのではない、感覚としての「罪」があって、それが許容量を超えるわけです。
だから気持ち悪い。そのボタンを押して、それで平気で以前迷惑をかけ続けてい売国奴がさあ。
どうしてあいつらはそれがわからないのか、と考えたときに、まあアホだからなんだろうけど。
やっぱりなんというか、それが生まれてからそういうことを親に教え込まれていた、そう教育されてきたから、っていうのがあると思うわけですよね。
なんというか受け継がれてきた売国なわけですよ。
呪われた血なわけですね。自民公明維新、カルトやザイム。
そして、親が政治家じゃないっていう売国議員もいるだろうけど、そういうやつもやっぱり血がそうさせるんじゃないかなと思っています。
でないと説明がつかないわけですよね。前述の「真の善性」的に考えれば。
どっかで心がグラグラすると思うわけですよ。だって大量に人を潰して再起不能にしてるわけですよね。何も悪くないやつをそうやって不幸にして、それで平然としてられるって、
そういうのってもう、そういう生まれなんじゃないかと思うわけですよね。
だから、生まれながらの悪はいるんだろうなと。生まれながらの善性もあると思うけども。
余談だけど、性善説か性悪説かみたいな話ありますが、どうして世界はどっちだけだっていう前提なんでしょうかね。絶対に子供によって変わるでしょっていう。
なんだろうね。だからなんというか、親から与えられたもので満足しちゃダメだなというか、自分がどうしたいのかっていう哲学は必要だよ。
売国議員はそれが自分のしたいことだったんだろうか?
まあ何にせよアイツラの罪は取り消せないからどうでもいいかぁ
つまり次の与党は、プロパガンダでもなんでもない真なる正義である、れいわ新選組しかないわけですよ。結論はいつもそれだけっす